「日ロ平和条約」は、長くて困難な道である 「プーチン訪日延期」の正しい読み方

✎ 1〜 ✎ 11 ✎ 12 ✎ 13 ✎ 最新
著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

日ソ共同宣言から17年後の1973年、田中角栄首相がソ連を訪問し、ブレジネフ書記長から、「両国間には未解決の諸問題があり、その中に北方四島の問題が入っている」という確認を引き出した。この合意は、「北方四島」が未解決の問題であることを確認した分だけ「日ロ号」を日ソ共同宣言より高いところまで押し上げたといえる。

その後、冷戦が継続するなかでソ連の態度は元へ戻ってしまい、「日ロ号」はまた坂下まで落とされた。当時、外交活動の中心にいたのはグロムイコ外相(第一次官より昇格)であった。

交渉はソ連の政治状況に連動

ゴルバチョフ書記長のペレストロイカが始まると、日ソ関係にも好影響を及ぼし、明るい展望が見え始めた。1991年4月、同書記長の訪日が実現し、海部俊樹首相との間で「歯舞群島、色丹島、国後島および択捉島の帰属についての双方の立場を考慮しつつ領土画定の問題を含め両国間の平和条約の話合いが行われた」という内容の共同声明が発表された。

文書で、しかも四島が実名で示された上で解決すべき問題であることが確認された。「日ロ号」は1956年の共同宣言よりも、また、田中・ブレジネフ合意よりもさらに一段高いところまで押し上げられた。

ところが、海部・ゴルバチョフ会談からわずか4カ月後の8月、ソ連で政変が起こり、ゴルバチョフは書記長を辞任した。日ソ関係の進展はゴルバチョフ個人の努力によるところが大きかったので、その失脚により「日ロ号」はどうなるか懸念される事態となった。

エリツィン大統領はゴルバチョフ書記長にもまして対日関係の改善に熱心であり、就任後さっそく訪日しようとしたが、ロシア国内ではその対日姿勢が政争の的になり、訪日開始予定期日のわずか4日前に同大統領は、宮澤首相に訪日を延期せざるをえないと電話で伝えてきた。

エリツィン大統領は93年10月に訪日を実現させ、細川首相と、「択捉島、国後島、色丹島および歯舞群島の帰属に関する問題」を解決して両国間の関係を正常化することに合意した(東京宣言)。日ロ号はゴルバチョフ書記長訪日の際とほぼ同じ高さにあることがあらためて確認されたのだ。

日本では細川首相の後、羽田、村山、橋本、小渕と首相が交代したが、「日ロ号」はなんとか同じ高さで支えられた。

次ページエリツィン時代に起きたこと
関連記事
トピックボードAD
政治・経済の人気記事