「日ロ平和条約」は、長くて困難な道である 「プーチン訪日延期」の正しい読み方

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その間、橋本龍太郎首相は川奈でエリツィン大統領に対し、非公式に、「日ロ号」を一段上に押し上げる重要な提案を行なっていた(1998年4月)。

エリツィン大統領はこれに即答しなかったが、同年11月に訪ロした小渕恵三首相に対し「川奈提案に対するロシア側の回答を提示し、日本側はこれを持ち帰って検討し、99年早期にもあり得べき首脳会談までに検討結果を回答することとなった」(外務省『われらの北方領土』)。このロシア側の回答内容は公表されなかった。

エリツィンの辞任で急変

「日ロ号」の更なる押し上げが実現する前に、今度はロシアの事情が変わった。ロシア国内の反大統領勢力が強くなり、また、大統領自身の健康状態が悪化して執務に困難をきたすようになったため、エリツィンは1999年の大晦日突然辞任してしまったのだ。

後を継いだプーチン大統領は、ほぼ同時期に就任した森喜朗首相と会談し、「川奈提案」は、日本側の「勇気と熟慮の成果」であったとしながらも、「妥協についての我々の考え方と完全には一致していない」として拒否した(2000年9月)。エリツィン大統領の回答とプーチン大統領の拒否とはかみ合わない点があるが、公表されていない部分があるからだろう。

ともかく「日ロ号」の更なる押上げは奏功しなかったが、プーチン大統領は「日ロ号」をエリツィン時代と同じ高さに置くことは了承した。それは森首相との「イルクーツク声明」で示された(2001年3月)。

森首相の後を継いだ小泉首相は2003年1月に訪ロし、プーチン大統領と「日ロ号」は同じ高さにあることを確認した。プーチン大統領は、2008年5月から2012年5月までメドヴェージェフに大統領を譲り、自らは首相になっていた。この間、日本では首相が矢継ぎ早に交代した。日ロ関係は、ロシアによる2010年7月の択捉島での軍事演習、11月のメドヴェージェフ大統領の国後島訪問などのため悪化した。

こうした中で、安倍晋三首相のロシア公式訪問が行われた。

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