ソ連の崩壊と社会主義の破壊は想定外だった ペレストロイカを実体験したロシア人教授の回想

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しかし、時間が経つにつれて、私のエリツィンへの評価は改善しました。エリツィンは、権力への野心・機会主義的な傾向が強かったものの、それでも彼はロシアの歴史では前例のない統治者でした。エリツィンは自分に向けられた激しい非難も許し、言論の自由と政治民主主義をさほど弾圧しませんでした。

むろん、1996年のロシア大統領選挙は、時の政権が露骨に介入した選挙でした。これはプーチン時代に入ってますます深刻化する、悪い伝統の始まりとも言えます。それでもエリツィンは、ロシアの政治文化の基準では民主主義をよく守った人とみなさざるをえません。おそらく、エリツィンは民主主義を本当に信じていたのでしょう。

――1991年8月のクーデター当時はどうでしたか。

クーデター発生は突然でした。当日早朝、レニングラード国立大学の教授からの電話でクーデター発生を知りました。それを聞いた私はまず怖くなり、私が望んでいた世界が崩れるのではないか、と思ったことを覚えています。

私はその後、民主化運動団体の事務所を訪ねました。クーデター勢力と戦う気持ちがあったためです。私のような気持ちを持った人は、圧倒的に大都市に住む若い知識人たちでした。庶民はますます厳しくなる一方の経済状況があり、そのためゴルバチョフの政策には強い不満がありました。そのため、彼らはクーデターを支持しないまでも反対することはありませんでした。多くの人たちは、クーデターに中立的な態度、または非常に消極的な支持といったものでした。

大都市の意向が国家の方針を決める

とはいえ、ソ連のような国で決定的なことは何だと思いますか。それは、首都モスクワと第2の都市レニングラードがどう考えるか、ということです。モスクワ、レニングラードの両都市では民主化を熱心に支持する人々が依然として多かった。もちろん、私もその中の1人でした。

1991年8月19日の夕方まで、私は恐怖感に包まれ、ゴルバチョフにより始まった崩れそうな改革を守るために戦おう――。そう考えていました。今でもその日のことをよく覚えています。

しかし、時間が経つにつれて、クーデター主導者たちの無能さと愚かさを目の当たりにしました。さらには、クーデター勢力を支持する人がほとんどいないこともわかりました。1991年8月19日夕刻、午後7時ごろだったでしょうか、その頃にはクーデター勢力が敗北すると感じました。彼らが「クーデターをどう行うべきか」さえ知らないままにやってしまったということがわかったためです。

翌1991年8月20日、私は民主化運動をする人々と一緒にいました。その日、「クーデターはまもなく失敗する」という気持ちがどんどん強くなりました。そして、失敗に終わったことを確認します。

ここで重要だったのは、当時の共産党幹部をはじめとする旧エリート階層の態度でした。私は民主化運動を少し経験し、また副業のおかげで共産党や国の幹部たちと知り合う機会が多かった。そのため、1989年に入ってから、彼らのペレストロイカに対する態度が変わり始めたのをよく観察できたのです。

彼らはもともとペレストロイカによる体制崩壊を恐れていました。しかし1989年末になると、彼らのそうした恐れが弱まったのです。彼らはペレストロイカ、とくに市場化政策をある程度歓迎し始めました。

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