もちろん、直接のやりとりではない。2人はすでに決裂し、西郷は下野している。去り際も、西郷が「あとは頼む」と言ったのに対して、大久保は「俺は知らん」と冷たく言い放った。後味の悪い別れ方だった。
それだけに、黒田清隆から手紙でこの西郷の言葉を伝えられたとき、大久保はどれほどうれしかったことだろうか。
大久保でダメならほかの誰でも難しい
経緯としては、鹿児島に派遣された薩摩藩士の伊集院兼寛が、台湾出兵に対する意見を西郷から聞き出し、それが黒田に伝えられ、大久保まで届くことになった。手紙は10月2日付で日本から発送されている。ちょうど大久保が現状を打破できずに、苦しんでいるところに、西郷の声が届いたことになる。
とはいえ、間に何人か入っているので、西郷がどんなニュアンスで言ったのかはわからない。実のところ、皮肉だったのかもしれない。自分の朝鮮への派遣にはあれだけ反対しておきながら、台湾出兵を黙認した大久保への思いは、一通りのものではなかっただろう。
しかし、肝心なのは言葉の真意よりも、本人にどう伝わったかだ。予想外のエールを受けて、佐賀の乱にも加わらなかった西郷のことを、大久保は懐かしく思い出し、「自分がやるしかない」と、清との交渉に心を奮い立たせたことだろう。
期待は人を強くする。西郷だけではない。大久保でダメであれば、ほかの誰でも難しいだろう……そんな周囲の空気が、大久保に腹をくくらせたのである。
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