大久保利通、琉球併合でしれっと仕掛けた驚きの罠 「琉球は日本に帰属する」と清に認めさせた経緯

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ハイビスカスとシーサー
琉球併合における大久保利通の外交手腕に迫ります(写真:yuki/PIXTA)
倒幕を果たして明治新政府の成立に大きく貢献した、大久保利通。新政府では中心人物として一大改革に尽力し、日本近代化の礎を築いた。
しかし、その実績とは裏腹に、大久保はすこぶる不人気な人物でもある。「他人を支配する独裁者」「冷酷なリアリスト」「融通の利かない権力者」……。こんなイメージすら持たれているようだ。薩摩藩で幼少期をともにした同志の西郷隆盛が、死後も国民から英雄として慕われ続けたのとは対照的である。
大久保利通はどんな人物だったのか。実像を探る連載(毎週日曜日に配信予定)第47回は、琉球併合をめぐる大久保の外交手腕について解説する。
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<第46回までのあらすじ>
薩摩藩の郷中教育によって政治家として活躍する素地を形作った大久保利通。21歳のときに父が島流しになり、貧苦にあえいだが、処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に取り入り、重用されるようになる。
久光が朝廷の信用を得ることに成功すると、大久保は朝廷と手を組んで江戸幕府に改革を迫ったが、その前に立ちはだかった徳川慶喜の態度をきっかけに、倒幕の決意を固めていく。大久保は閉塞した状況を打破するため、島流しにあっていた西郷隆盛の復帰に尽力。その西郷は復帰後、勝海舟と出会い、長州藩討伐の考えを一変させ、坂本龍馬との出会いを経て、薩長同盟を結んだ。
武力による倒幕の準備を着々と進める大久保と西郷に対し、慶喜は起死回生の一策「大政奉還」に打って出たが、トップリーダーとしての限界も露呈。意に反して薩摩藩と対峙することになり、戊辰戦争へと発展した。
その後、西郷は江戸城無血開城を実現。大久保は明治新政府の基礎固めに奔走し、版籍奉還、廃藩置県などの改革を断行した。そして大久保は「岩倉使節団」の一員として、人生初の欧米視察に出かけ、その豊かさに衝撃を受けて帰国する。
ところが、大久保が留守の間、政府は大きく変わっていた。帰国した大久保と西郷は朝鮮への使節派遣をめぐって対立し、西郷は下野。同じく下野した江藤新平は「佐賀の乱」の首謀者となった。大久保は現地に赴き、佐賀の乱を鎮圧する。次に大久保が進めた「台湾出兵」でも粘り強い交渉の末、清から賠償金を得た。

「琉球」の日本帰属を清に認めさせた

明治7(1874)年11月26日、清から帰国した大久保は、横浜港に集まった群衆から大きな歓迎を受けた。だが、清との外交で日本が得たものは、賠償金だけではない。どれだけのことを大久保が成し遂げたのか。本当の意味で知る者はほとんどいなかった。

清との外交による功績の1つが「琉球(沖縄)の日本帰属を事実上、認めさせたこと」である。いったい、どういうことか。

そもそも、今回の台湾外征がなぜ行われたのか。那覇を出航した2隻の船が暴風によって台湾に漂流。66人のうち54人が現地の高砂族に殺害され、日本が抗議すべく台湾に出兵する。それに対して、台湾を事実上統治する清が日本に抗議してきたので、大久保が乗り出していった。

清との話し合いで争点となったのは「台湾が清の帰属なのかどうか」。清に帰属するのならば現地人による殺害について清は日本に賠償金を支払う必要があるし、帰属していないのならば日本が台湾に出兵しても清に文句を言われる筋合いはない……ということになる。

この論法で大久保は交渉を進めたが、実はもう1つの重要なテーマが、この議論には内包されていた。それは殺されたのが、那覇から帰路につく宮古島の島民だったという点だ。

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