大久保が清との外交で注目すべきところは、またほかにもある。それは、清と敵対関係ではなく、親善関係を構築しようとしたことだ。
北京で交渉をまとめた後、大久保は天津で李鴻章を訪問。李鴻章といえば、直隷総督と北洋大臣を兼務する清の大物政治家だ。そのときに大久保は李鴻章から、こんな言葉をかけられている。
「貴国とわが国は唇歯の間柄で、決して離れるべきものではない」
清からの賠償金の大半を返還しようとしていた
実は、大久保は賠償金について、驚くべきプランを示している。清から勝ち得た50万両のうち、被害者に配布する10万両以外の40万両を清に返還するべきではないか、というのだ。返金した分は、台湾先住民の開花や航の安全のために清に使ってもらうのがよいと大久保は考えた。その真意について、黒田清隆への手紙でこんなふうに書いている。
「剣で敵国を退治することよりも、この英断によってアジアの小島である日本の盛名は輝き、いっそう高みに達することであろう」
目先の賠償金を手放すことで、日本は列強からも注目され、より大きな外交上の恩恵が得られるに違いない。大久保はそう確信していたのである。結局、この案は実現には至らなかったが、大久保がいかに広い視野を持って、相手国と交渉していたかがわかる。
そんな思いは清にも伝わったのだろう。理路整然と戦う大久保を「敵ながらアッパレ」と李鴻章は感じ入ったようだ。こんな言葉まで続けている
「今後は信を厚くし、親睦を固くせん」
これに対して、大久保も清への領事官派遣を希望。文化的な交流も含めて、親交を深める意思を確認し合っている。もちろん、大久保も李鴻章も、場当たり的なお世辞をいったわけではない。
その後、大久保は初代駐日公使である何如璋と協議し、日中語学校の設立へと動いている。さらに、明治13(1880)年には「興亜会」という団体が設立される。大久保が起草したビジョンが実現し、日本で初めてアジア主義の総合機関が誕生することになった。
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