脱北してYouTuberになった彼が得た"本当の自由" 草が入ったとうもろこしご飯を食べていた10代
脱北して得た「僕にとっての自由」
脱北をしたことで、イデオロギー的な自由を得たことは間違いない。あらゆる事柄を自由意志で選択できるのは、間違いなく「自由」だ。だが、実はそれだけが自由ではないことにも気づいた。
大学時代、イギリスの思想家であるジョン・スチュアート・ミルの書いた『自由論』を読み、その後、アイザイア・バーリンの『自由論』に触れてさらに思索を深めた。自由には、積極的な自由と消極的な自由があり、何かやりたいことがあっても、経済面や環境といった外的要因のせいでできないなら、それは自由とはいえない。
やりたいことを権力者によって統制されても自由とはいえない。社会の暗黙のルールや調和を重視するあまり個性が犠牲になる日本のような社会もあれば、アメリカのように個を優先する社会もある。政治的、経済的、社会的状況によって自由の定義が違ってくる。
それに照らしてみると、経済的な限界はあるが、昔には想像もしなかったことができるのが僕にとっての自由だ。
聴きたい音楽を聴きたいときに聴いて、見たい映画を見たいときに見て、旅行に行きたいときに行く。日本をはじめとする自由な社会に生まれた人にとっては、あまりにも当たり前の事柄だろう。ひょっとしたら、それが自由であるか否かもわからないかもしれない。
僕が脱北してよかったことは、そんな語るまでもない自由を享受できたことだ。自由を得た僕は、資本主義社会で、基本的に働けば働いた分だけ得られる対価よりも、幸せに生きる時間をもっと増やそうと考えるようになった。北朝鮮にいた頃は、幸せと言えば食べることしかなかった。
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