始まる前からほぼ負け確定「沖縄戦」の心痛む惨状 民間人も巻き込み、「美学」で戦争していた現実
その甲斐あって日本軍は、嘉数高地ではアメリカ軍が投入した戦車30台のうち実に22台を撃破するという大戦果を挙げたのです。ですが、日本軍の兵士や兵器は減っていく一方で、対するアメリカ軍には絶え間なく援軍が来て、新しい戦車も兵士もどんどん上陸して次々戦線に送られてきます。
じわじわと日本の戦力だけが削られていく形になってしまい、わずかに残った兵士たちも爆弾を抱いて相手に突撃して散っていき、嘉数高地も完全にアメリカ軍の手へと渡ってしまいました。
当初アメリカ軍はこの嘉数高地を2日ほどで制圧する予定でしたが、日本軍の必死の抵抗によって、制圧まで予定よりはるかに長い16日間を要しました。その過程で、沖縄戦に投入された日本軍の総兵力約10万人のうち、半数を超える6万人が戦死または致命傷を負っており、嘉数での戦いによってアメリカ軍の進軍をかなり遅らせることができた一方で、沖縄戦の日本軍敗北が決定づけられたとの見方もされています。
本土決戦までの時間を稼ぐという雰囲気に
少々の抵抗はしながらも基本的にはアメリカ軍の上陸から一方的にやられっぱなしの日本軍は、何をしてもまったく勝てない!こうなったらもう本土決戦までの時間を稼ぐしかない……という雰囲気が全体に広まり、攻撃主体から防御主体の立ち回りになります。
もともと首里城の地下に日本軍の司令部が構えられていたのですが、防御を固めるということで、首里城から南に進んだ沖縄本島南端の摩文仁(まぶに)という地域へ司令部を撤退させたのです。
摩文仁の背後は海に面しており、海岸線は30~40 mほどの断崖絶壁が続くので、海からアメリカ軍がやってくることはなく、防御にはうってつけの場所でした。
とはいえ、戦線を下げて軍の拠点を構えたところで、できることは時間稼ぎだけです。拠点にこもってアメリカ軍にやられるのを待っているだけです。アメリカ軍は日本軍の拠点を見つけ次第、ガソリンを流し込んで火をつけたり、毒ガスを用いたりして、一つ一つ潰していきました。
こうして摩文仁に構えた最終防衛線もあっけなく崩壊し、1945年6月30日にはアメリカ軍は日本兵の掃討を完了し、1945年7月2日に沖縄戦の終了を宣言しました。こうして4月1日から始まった約3カ月間にわたる激戦は幕を下ろしたのです。
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