親父が死んで、私は突然「おくりびと」になった 思わぬものを親父と私と家族にもたらしてくれた
自分の経験と感じたことを言葉に置き換えているうちに、気づいたことがあった。
死んだ親父の体に直接ふれ、服を着替えさせる納棺という仕事。
それは、きわめて具体的な「死者との対話」だった。
納棺の手伝いをするその直前まで、おくりびとになるまで、私は親父の死を、親父の遺体を、ちゃんと感じることができていなかった。
コロナ禍でずっと会っていなかったからだろうか。最期を直接みとれなかったからだろうか。そうかもしれない。そういえば、祖父母や友人が突然亡くなったとき、目の前に遺体があるのに、なぜかリアリティを感じることができない。そんな戸惑いを覚えた経験が何度かあった。
実際の通夜や葬儀の場で、そこに親しい人間の遺体があるのに、その遺体の意味を、死んだという事実を、二度と戻ってこない喪失を、うまく汲み取れない。目の前に遺体があるのに、だ。親しかった人の遺体がリアルな存在に感じられない。白い棺に入り、花に縁取られ、白装束を身にまとった故人。亡くなったばかりの本人の体が横たわっている。
現代においては、よっぽど近くで寄り添っていない限り、私たちは、すでに亡くなった人の死に直面することが困難だ。お通夜に駆けつけても、故人はすでに棺に納められ、祭壇に飾られた花とともに、本人ではなく本人の象徴のような存在になっている。そのまま翌日になれば、葬儀が行われ、すぐに荼毘に付されてしまう。遺された者が故人の死を肉体的に直接感じる機会は、ほとんどない。
おくりびとになって消えた戸惑い
実家に戻って、布団に横たわる亡くなった親父と対面したとき、私自身が戸惑った。
うまく感情が出てこない。妙に覚めた、妙に他人行儀な、斜め上から見ているような自分の視線に気づいた。なぜ、こんなによそよそしいんだ。
その戸惑いは、しかし翌日の午後、たちどころに消えてしまった。
納棺師の誘いで、私は、おくりびとになったからである。
親父の体にふれ、手を握り、裸にし、服を着替えさせた瞬間、目の前の遺体は、抽象的な存在から、昔から知っている肉親に戻った。
着替えさせながら、私は親父に話しかけた。声を出して。
「死者との対話」というやつを、きわめて即物的にやっちゃったのだ。
そしてその経験は、思わぬものを、亡くなった親父と私と家族にもたらしてくれた。
ひとことで言うと、「ケア」だ。では、そのケアとはなにか。
それは、死んでしまった人へのケア、死んでしまった人からのケアだ。
「納棺」は、死者の弔いである前に、死者と生者、両方へのケアなのだ。
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