「民主主義と資本主義」奇妙な連携が破たんする日 もはやお荷物?民主主義はどうなってしまうのか
民主主義はその逆である。そもそも民主主義とは何か? 民主主義(democracy)の語源はギリシア語のdēmokratíaで、「民衆」や「人民」などを意味するdêmosと、「権力」や「支配」などを意味するkrátosを組み合わせたものだという*3。「人民権力」「民衆支配」といった意味になる。
民衆支配はさまざまな部品からなる。1つは、異質な考えや利害を持つ人々や組織が政治に参入でき、互いに競争したり交渉したり妥協したりしながら過剰な権力集中を抑制する仕組みだ。これを象徴するのが執行/行政府(政府)・立法府(国会)・司法府(最高裁)や無数の監視機関への権限の分散だ。
もう1つの部品が選挙になる。自由で公正な普通選挙を通じて有権者の意思(民意)が政策決定者を縛ることで、民衆が支配する。横から監視し、下から突き上げる諸力が憲法に規定され、簡単にはその仕組みが解除できない状態になっているのが民主主義の典型的な形だ。
どんな天才もバカも、ビリオネアも無職パラサイトも、選挙で与えられるのは同じ1票。情弱でも貧乏でも「だってそう思うんだもん」で一発逆転を起こせるのが民主主義の強みであり弱みである。
平均値や中央値が大事になる。その結果、たとえば年金生活者が投票者のほぼ半数を占める今の日本で民主主義をやると*4、老人っぽい好みへの忖度が物事を突き動かしていくように見える。白髪染めやカツラの通販が妙に多いお昼のテレビ番組と似ている。
民主主義と資本主義を混ぜる理由
逆行して足を引っ張り合うように見える民主主義と資本主義。なぜ水と油を混ぜるのだろう?
人類は世の初めから気づいていた。人の能力や運や資源がおぞましく不平等なこと。そして厄介なことに、技術や知識や事業の革新局面においてこそ不平等が大活躍すること。したがって過激な不平などを否定するなら、それは進歩と繁栄を否定し、技術革新を否定する、仮想現実に等しいことを。
何らかの科学技術の開発にちょっとでも携わったことのある者なら知っているように、最高品質の研究者やエンジニアの創造性と生産性は凡人1000人分を飛び越える。
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