ジンギスカン「戦前は東京名物だった」意外な事実 北海道より東京のほうが羊の消費量が多かった
下の写真は、雑誌『食道楽 1932(昭和7)年1月号』巻頭に掲載された正陽楼のジンギスカン (烤羊肉)の写真。向かって左側にいるのが正陽楼店主、真ん中にいるのが「濱のや」店主です。
机に載せられた「炉」には、薪がくべられています。薪からは煙がもうもうと立ち上るので、屋内で食べるわけにはいきません。ジンギスカンは正陽楼の庭で行われていた、屋外バーベキューだったのです。
炉の上には、剣道のお面を巨大化させたような、中央部が盛り上がった鉄棒でできた網が載っています。片足を椅子に乗せた状態で、長い箸で羊肉を鉄網に置いて焼くのが、ジンギスカンの正式な食べ方でした。
羊肉は、鉄棒の隙間から立ち上がる薪の煙によって燻されます。ジンギスカンとは、煙による燻製と焼肉が合体した料理でした。
日本化したジンギスカン
これは東京の大井町にあった中華料理店、春秋園のジンギスカン広告。このころ(1933年)のジンギスカンはまだ、正陽楼の烤羊肉の面影をとどめています。
ただし燃料は薪から炭になり、ここにジンギスカン日本化の一歩が垣間見えます。中国現地のように薪の煙で燻す方式から、炭に落ちた肉汁の煙で羊肉を燻す方式に変わったのです。
やがてジンギスカンは屋内料理になり、七輪の炭で焼くようになりますが、炭火からの煙で羊肉を燻すために、鍋にはスリットが開けられていました。
その後熱源が炭火からガスになったために煙が上がらなくなり、スリットが塞がれ、溝が刻まれた鉄板へと変化します。
現在の兜のようなジンギスカン鍋の意匠は、剣道のお面のような正陽楼の鉄網が日本で変化したものなのです。
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