教科書で習う那須与一「扇の的」何とも意外な事実 舞台である「屋島の戦い」に戦らしい戦はなかった
2月18日の早朝には、阿波国の勝浦(徳島県小松島市)に上陸。勝浦に到着した義経は現地の武士・近藤六親家から、
「阿波民部重能の弟・桜庭良遠が平家に味方していること」
「屋島にいる平家の軍勢は浦々・島々に分散し、小勢となっていること」
「伊予の河野通信を攻めるため、平家方の有力武将・田内教能が3000騎で出陣したため、屋島守備隊は1000騎に過ぎないこと」
を聞かされる。
まず、桜庭良遠の城を攻めた義経軍は、城内から降ってくる矢をものともせず戦ったので、良遠は「これはかなわぬ」と落ち延びる。
その後、阿波と讃岐の国境にある大坂越という山を夜通し駆け抜けた義経軍は、2月18日の午前4時ごろに、讃岐引田に着き、小休止する。そして、高松の民家に火を放ち、屋島の城に攻めかかるのだ。
「高松方面に火の手があがった」と知った平家方は「敵が攻め寄せてきたに違いない。しかも大軍であろう。包囲されてはひとたまりもない。さあ、早く舟へ」(『平家物語』)ということになり、一目散に乗船。義経軍も小勢と見られないように、数騎を一団として、群れをなして動いていたという。
「平家物語」には緊迫の光景が描かれている
『平家物語』によると、海上に出ていった平家方も、弓矢を放ってきたようだ。「都で第一の強弓」と評判の高かった平教経の放った矢が、義経の股肱の臣(ここうのしん、最も頼りになる家来)である佐藤継信を貫く場面は印象的である。
継信の弟・忠信は兄の首を取らせまいと奮戦。首取りをしようとした教経の童・菊王丸を弓で射殺す。倒れた菊王丸を舟から飛び降り、助け出す教経。戦場の緊迫の光景が『平家物語』に生々しく描かれる。
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