いくら世界に目をこらしたところで、結局、私たちには世界の本質が見えないのだろう。自分が見ると予想したもの、見たいもの、ときには見たくないと思っているものを見る。それが人間の特性の1つなのだ。
懸命にパターンをさがし、日常生活を形成する事象にパターンを見いだすと、安心する。それは医療におけるプラシーボ効果のようなものだ。
「このちっぽけな緑色の錠剤で気分がよくなる」と信じて、それを服用すれば、実際に気分がよくなる。この場合、錠剤の成分が本当に重要なのだろうか? 私にとっては重要ではない。
もし、この靴を履けば毎日、物事がスムーズに運ぶと信じているのなら、この靴を履けばすばらしい1日を送れるだろう。ラッキーシューズを信じるのは不合理であるという事実は、それほど重要なことなのだろうか? 個人的には、そうは思えない。
運を信じればパフォーマンスが向上する
運を信じること自体に、いっさい悪いところはない。それどころか、運に頼れば、困難な状況に直面してもやる気を高められるので有益になりうる。
運を信じれば、自分には状況をコントロールする力があると思えるかもしれない。そうすればパフォーマンスが向上し、成功しやすくなり、いい結果がでやすくなる。すると、次回、困った状況に追い込まれたときに、いっそう運を信じるようになる。
〝成功ほど続いて起こるものはない〟ということわざのとおり、私たちは過去に成功したことに関しては、また成功する傾向があるのだ──たとえ、過去にうまくいったこと自体が不合理であったとしても。
自分に対する期待、とりわけ自分が目標を達成する確率に対する期待は、決断をくだす方法に影響を及ぼす。私たちはたいてい、つらい体験を通じて、自分の期待について学んでいく。しかし、つらい体験こそが、本当の意味でなにかを学ぶ唯一の方法なのだ。
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