ロシアがヨーロッパではない「歴史的な根源」 西欧はいつからロシアに脅威を感じているのか

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山本新(やまもとしん、1913–80)は、『周辺文明論』(刀水書房、1985年)の中で、ロシアはビザンツの周辺文明からヨーロッパの周辺文明に急転換したため、ヨーロッパ風がなかなか身に付かないと指摘しています。

これは日本人も同じで、長い間、中国文明の周辺文明であったものが、明治維新で突然ヨーロッパの周辺文明になった。だから〝付け焼き刃〞のところがあって、しっかりと身に付いていないところがあります。

ロシアは日本によく似ています。ロシアは中央文明ではなく、ビザンツの周辺文明でしたが、18世紀に西欧文明に切り替えます。日本よりも150~160年ほど〝文明開化〞の先輩です。

だからロシアを知ることは、日本を知ることでもあります。

西欧化で急激に国力を上げる

ロシアは、確かに西欧化したことによって、急激に国力を上げました。ロシアはそれまで外国の侵略を受けてきましたが、今度は自ら海外へ侵略することが日程にのぼります。ネルチンスク条約(1689年)を結び、17世紀以降にどんどん東アジアへ侵出し、やがてアジアの果て、オホーツク海へ出ていきました。彼らは18世紀の後半には日本近海に出没し始めました。

ロシア人が日本に来たのはかなり早い時期でした。頻繁に現れるようになったのは、19世紀前半で、日本以外の地域でも南下を進めます。黒海地域のオスマン・トルコの衰退とともにその地域に侵入し、やがてカスピ海周辺、アゼルバイジャンの一部を併合しています。

アゼルバイジャンがロシアに併合されたのは、ナポレオンがロシアを侵攻していた頃で、ペルシャからロシアが取った(1813年)のです。

この地域は、オスマン帝国とペルシャの衰退が18世紀を象徴しています。その空隙をぬってロシアの南下が始まるのです。その過程でアゼルバイジャンもロシアの支配下となります。

アゼルバイジャン人は、アゼルバイジャン本国よりも隣国イランにたくさん住んでいます。イランのほうが多いくらいですが、これはペルシャから引き裂かれて分断されてしまったからです。

南のアゼルバイジャン人は当時、そのままペルシャに留まりました。

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