このようにロシアが南方へと拡大してくると、ヨーロッパも放置しておくわけにはいかなくなります。アレクサンドル1世は1814年の4月、パリに、ナポレオンを撃退した勝者として入って来ます。
多くの西欧人は、ロシア人のような田舎者に西欧の都・パリを占領されることに怒りを覚えたと思います。フランス人は、それまでロシアなんて国に関心がなかったのですが、ここからは重要な国になります。脅威すら抱くことになったのです。
19世紀の前半からは、こうした「ロシア脅威論」が起こります。弱いと思っていたロシアがパリを占領する。やがて、メッテルニヒのウィーン会議によって、ロシアが大国として対峙するようになります。その後、ロシアはどんどん力を持つようになるのです。
この脅威について、ヨーロッパの人々は「東側から得体の知れない人々がやって来る」と語りました。これはのちに「イエローペリル(黄禍)」と呼ばれるものの始まりです。イエローペリルは、ロシアを〝タタールの末裔〞と考えるところから発しています。モンゴルの血が入っているということです。「日が昇る国」アジアとは、ロシアから東を指しています。一般的な外見の問題とは別に、ロシア人は非ヨーロッパ人とみなされたのです。
地理的な問題だけではない
そう考えると、アジアという言葉の意味が、単に地理的なものではなく一種のイデオロギーの問題だということに気づきます。人種や文化というものは、むしろそう決め付けるイデオロギーであるということです。ヨーロッパに対する侵入者たちは、基本的にアジアということになります。
「ロシア人はアジア人」というのは、先ほどのタタールの末裔、モンゴルのイメージとロシアのイメージが重なり合っています。
コサックのイメージです。モラルのない非文化的で野蛮な人々というイメージは、ナポレオンを追撃したコサックに対してのイメージでした。
こうした東に対する脅威は相対的なもので、最も西にあるフランスから見ればドイツ以東はアジアで、ドイツから見ればポーランドがアジアになる。「アジア」が軽蔑のレッテルとして使われ始めたということになります。
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