ロシアが現在のような西欧的な雰囲気を持つようになったのは、正確に言うと18世紀の前半です。それまでのロシアは、ロシアであってロシアではありませんでした。
キエフ公国やモスクワ大公国などは存在していましたが、それはロシアと違います。17世紀後半のピョートル大帝(1672–1725)までのロシアは、ビザンツ帝国の文化の影響の色濃い、ビザンツ的世界でした。もっと言えば、ギリシャ正教を中心とした文化の中で生きていました。
ところが、ピョートル大帝が一気にそれを変えます。これがロシアのヨーロッパ化で、そちらに舵を切ったのです。その理由はヨーロッパにおける状況の変化です。ピョートルによる転換の直前に、オスマン・トルコの侵攻がウィーンまで及びます。やがてオスマン・トルコは衰退し、そこからは没落の一途をたどるのですが、そうなると南のオスマン・トルコの勢力圏が弱まって、相対的にロシアの力が高まります。
しかし、それは逆に不幸を招くものでした。「ステンカ(スチェパン)・ラージンの蜂起」という奴隷となっていた農民の反乱が起きます。
ステンカ・ラージン(1630–71)の反乱は、モスクワの南部から起こって、ロシアは火の海となり、ロシア帝国の軍隊は敗北を重ねます。その結果、ピョートル大帝は軍隊の近代化を図る必要があると考え、フランスやイギリスを訪れ、学ぼうとします。こうしてロシアの近代化、つまりヨーロッパ化が促進されたのです。それまではビザンチン、さらに言い換えればアジア的ロシアでした。
ロシア人は長期にわたってビザンツ文化圏にありましたが、モンゴルが侵入してきた時に生まれたタタール文化も浸透していました。
それが、日本の明治維新と同じように、一気に西欧化したのです。
一気に西欧化するロシア
ロシア人は当然、急速な変化に違和感を持つのですが、ロシアは西欧化で強国になります。それまで強かったスウェーデン、ポーランドに対しては、ポーランドを分割するまでに至ります。
ロシアにとって、歴史的にもポーランドは脅威であって、何度もやられています。スウェーデンも同様でした。そこで西欧化したロシアは、ポーランド、スウェーデンをとことんたたいたのです。そのために手を組んだのがプロイセンです。プロイセンとは、かつて一緒になってポーランドを分割したことがあったのです。
再びポーランドを分割することによって、歴史上の脅威が消えました。そうすることで、ロシアの強国化がどんどん進んでいく。それがピョートル大帝の政策だったのです。
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