仕事の質は「どう」ではなく「誰」とやるかで決まる マイケル・ジョーダンが至高の選手になれた訳
2人がそろった最初のシーズンで、ブルズはついにファースト・ラウンドを突破した。その後の2シーズンは続けて、セカンド・ラウンドでライバルのデトロイト・ピストンズにたたきのめされたが、ジョーダンとブルズにとって、この「敗北」は、優勝という最終目標を必ず達成すると決意するために、ほかの何よりも必要なものだった。
責任をチームで分担
1989年になると、誰もが認めるベストプレーヤーとなったジョーダンに、ライバルなど存在しなかった。ピッペンの力を得たブルズは停滞期を脱しはしたものの、ジョーダンの神がかり的な能力をもってしても、次の壁が立ちはだかるのだった。
ライバルチームが、「ジョーダン・ルール」と呼ばれる戦術を考案し、ジョーダンの動きを封じたのだ。ジョーダンが自由に動けない状態では、ブルズに勝ち目はなかった。ブルズが勝つためには、もう1人の「誰か」が必要だった。その年、フィル・ジャクソンが監督に就任した。超人的才能を持つジョーダンのみに頼るのではなく、チームプレー重視の戦略、トライアングル・オフェンスを導入した。
責任を、1人で背負い込むのではなく、チームで分担することで、ジョーダンは優れたオールラウンドプレーヤーとなり、ビジョンを持ってプレーするようになった。ブルズも、チームと監督の力を再確認した。
ジャクソンの監督就任1年目で、チーム力は強化され、シーズン終了時には55勝27敗という記録を打ち立てた。しかしプレーオフでは再度ライバルに敗北を喫した。
明けて1991年、シカゴ・ブルズはついにNBAシーズンを史上最高記録で締めくくった。この時の記録は61勝21敗。そしてイースタン・カンファレンスのファイナルで、最大のライバル、ピストンズを4勝0敗のストレートで破った。
ブルズの快進撃は続く。NBAファイナルで、強敵ロサンゼルス・レイカーズを破った。ジョーダンは、2度目のMVPを獲得、初のチャンピオンシップを手にした。
ブルズはこの後7年間でさらに5回優勝を重ねた。ジョーダンの才能に導かれ、チームベースの陣形であるトライアングル・オフェンスに磨きをかけた成果だった。