しかし考えてみれば、日本人同士だって、お互い言いたいことだけ言っている話し合いなんていくらでもあります。それなのになぜか外国人相手になると緊張して、相手が聞いてくれるに値することをきちんと話さなければ、という構えになってしまう。
桑島:そうですね。やはり日本人が気づいていない、カルチャーの違いもあるかもしれません。もうツルツルに磨いたボールじゃないと投げちゃいけないというような。あれも誤解ですよね。
田村:おっしゃるとおりです。さらに言えば、自分の持っているボールが本当はピカピカなのに、ピカピカだと気づいていないこともあります。投げてみると、実は自分が思っている以上に先方はこのボールを評価してくれるということがあるので、どんどん投げるべきだと思います。
そのうえで海外からのフィードバックを受けて、自分自身の考えをさらに磨いていく。自分のバリューがどういうふうに評価されているかを客観的に知る。それが日本人はあまり得意ではないような印象を持ちます。
日本人にはイデア主義的思考がなかった
私見ですが、おそらく日本人というのは、人間や自然の存在を客観的な目で見るのが苦手なんじゃないかと思うのです。西洋にはプラトンの登場以降、「超自然的理念に従って、自然は作り変えられるべきである」という哲学的伝統があるでしょう。
ソクラテス以前までは西洋でも、「自然と人間は一体だよね」という、自然と人間が渾然一体となった世界観だったのが、プラトンが出てきて、「いや、人間や自然の上にはイデアがある」と主張した。そのイデアという世界の設計図に従って、自然や人間というのは動いているし、動かなきゃいけない。
さらに、その自然のあり方をいちばん知っているのは人間なのだから、人間は自分の都合のいいように自然をどんどん変えていけばいいのだという考え方が一般的になった。だからこそ西洋では科学が発達したし、経済活動も活発化していったのではないかと思います。
だから欧米の人たちは、「世界統治」の要諦はルール形成であると心得ていて、経済分野だけでなく、あらゆる領域でルールメーカーであることにこだわりを見せますよね。
日本の場合は、そういうイデア主義のような考え方がこれまで生まれてこなかった。つねに人間も自然も渾然一体となっていて、人間は世の中のあり方を規定するような存在ではない。今も日本人はルールメーカーであるよりは、ルールテーカーとしてのメンタリティが強いのですが、それは西欧のような思想的伝統を持たないことと関係があるかもしれません。
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