隠れた名門、「ホテル龍名館」の秘密 明治の文化人が愛した老舗は何度も変身
創業当時の建物は2階建てで、全室が庭に面していた。また卯平衛氏はかなり「ハイカラ」だったようで、庭の一角に西洋館を造って洋食も供した。その洗練された趣とサービスは各界の著名人の人気を呼び、龍名館は雑誌にもたびたび取り上げられたという。そして大正時代には呉服橋支店、猿楽町分店を出すほどまでに発展した。
「当時の有名な文人や芸術家たちが数多く利用したそうです。とりわけ竹久夢二は猿楽町の分館がお気に入りで、女性と一緒によく泊っていたとか。彼らは逗留代金の代わりに自分たちの作品を置いていったと聞いています。川村曼舟画伯からは『御祝儀だよ』と“雲中採玉”をいただきましたし、“月下松島”には『室料として』という添え書きが残っています」(敏男氏)
そのほか、伊東深水の手による「静物(牡丹と皿)」や村田玉田作の「葡萄」など、数々の珠玉の名作がいまも龍名館で大切に所蔵されている。
「しかし大正12年(1923年)の関東大震災でその多くが失われました。この時は本店をはじめ3店ともに焼失してしまったのです」(敏男氏)
再建に奮闘した2代目
絶体絶命のピンチの中で再建に奮闘したのが、2代目の次郎氏だった。
「濱田次郎は旧姓高久といい、慶應義塾の理財科を卒業したのちに日本興業銀行に入り、龍名館に婿養子に入りました。次郎氏の叔父が当時の豊国銀行に勤めており、龍名館はその顧客だったのです」
敏男氏が「龍名館の中興の祖」と評する次郎氏は、姑のうた氏と一緒に、当時日本最大の地主だった山形県の本間家に援助を求めに赴いた。
「本間様はふたつ返事で融資して下さいました。しかも無利子無期限ということだったのです。この時の御厚意がなければ、龍名館は再建できなかったと聞いています」(敏男氏)
その恩義に報いようと次郎氏らが必死に働いたため、借入金は完済できた。しかし昭和に入って景気が悪くなってしまう。1940年に開催されるはずだった東京オリンピックに向けて2階建8室の新館を建てたものの、オリンピックも中止となった。結局新館は戦争中、大東亜省の官舎として貸し出されることになった。
そして空襲で呉服橋支店と本家の名倉旅館が焼失。名倉旅館はこの時に廃業したが、龍名館は戦後に再起を果たす。ちなみに次郎氏は本業のみならず、「全国旅館組合」を結成して旅館業界の社会的信用を高めるのにも寄与している。
1948年に3代目の野本隆氏を婿養子に迎え、1976年には本店をビルに建て替えた。さらに六本木に日本料理店「花ごよみ」を出店し、2009年には135室の「ホテル龍名館東京」を開業した。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら