政府与党をはじめとする国家権力は、情報を「隠そう」(不可視化しよう)とする存在である。したがってそれに対抗し、つねに「見える化」(可視化)を求めていくことが、リベラルな野党やジャーナリズムの使命である――。
こうした問題意識は、二度の非自民政権への交代や、ネットメディアの発展を見た平成のあいだに定着し、長らく議論の前提となってきました。しかし、「桜を見る会」の追及を典型として、その路線に忠実に「見える化」を叫び続けた野党勢力は、なんら有意義な達成を得ずに敗北し、逆に令和のコロナ禍では、むしろ「隠す」のではなく「見せる」タイプの新たな権力の誕生が明白になったのです。
連日、テレビのニュースショーがトップで新型コロナの感染者数を大きく報じる中、国民の多くは(中国やヨーロッパのような法的なロックダウンには至らなかったものの)政府による「私権の制限」を積極的に支持しました。外出自粛・営業自粛など、もし平時に政治家が口にすれば「憲法違反だ!」との非難にさらされただろう政策が歓迎され、一時はむしろ国民同士が相互に監視し、違反者を告発するような風潮(自粛警察)さえ生まれました。
ある種の情報は隠すよりもむしろ、積極的に開示し見せていったほうが、為政者は国民を自在に操れるのではないか。長期に及んだコロナ禍の中で、そうした「逆転の発想」が着実に浸透していったことは、データやスローガンを載せたフリップを片手にテレビ出演を繰り返し、熱狂的な支持を集めた自治体首長の姿を思い出せば明らかなことでしょう。
ウクライナ戦争における「情報の見える化」
コロナの後を襲う国際的な危機となったウクライナ戦争(2022年2月〜)は、この点でも象徴的な画期となりました。アメリカは「開示による抑止」政策と呼ばれる、積極的な諜報内容の公開によってロシアの開戦を当初止めようと図り、ロシアがウクライナ全土への侵略を開始した後では、政略と一体での最新の戦況の拡散を各国が競って繰り広げています。
私たちはこれまで、情報公開と政治権力の関係について、あまりにナイーブな理解をしてこなかったか。日独双方のファシズムの研究で知られる歴史家の佐藤卓己氏が、しばしば著書で使われる言葉に「ヒトラーやスターリンは、『黙れ』ではなく『叫べ』といった」というものがあります。隠蔽・抑圧ではなく顕示・宣伝によってこそ、人類史上最も強権的な独裁政治が成立してきた史実が、20世紀には現に存在しました。
いまロックダウンを体験した欧米も含めて、感染症の拡大防止のような「国民全体の目標のため」であれば、個人の自由や権利を制限するのはやむをえないとする感性が広まっています(たとえばワクチン接種の強制)。それが21世紀版の新しい「全体主義」につながらないためには、むしろ「見せる」ことの副作用のほうに主眼を置いた、新たな政治とメディアについての考察が必要となるでしょう。
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