「木曽義仲」平家都落ち実現後に法皇襲撃のなぜ? 後白河法皇との対立が深まっていった背景
『玉葉』によると、御所の四方はことごとく火を放たれ、煙が御所内に充満するありさまであった。正午ごろに火が放たれたようだ。義仲の軍勢は所々に攻め込み、いずれも院方を圧倒した。公卿は四方に逃げ、女房らは裸形で逃走する。
午後2時ごろには鬨の声(『玉葉』)が聞こえたようだ。午後4時ごろには、院方はことごとく敗退し、戦は義仲の勝利に終わる。『玉葉』の著者・九条兼実は「矢に当たり死傷する者、十余人」と記す。
そのうえで「義仲はこれ天の不徳の君を戒むる使いなり」と法皇の過激な行動を非難している。
法皇の行動も「至愚の政」
元来、兼実は「義仲は小勢だが、その軍勢は勇敢であるので、都で合戦するのは得策ではない。もしものことが起これば、後悔しても後の祭りだ」「院に兵を集めて警固するのは、王者の行うべきことではない。義仲の主張にももっともなところがあるのだから、彼を説得することが重要だ」との思考の持ち主であった。
しかし、その兼実でさえも、まさか義仲が院御所を攻撃するとは思わず、襲撃の報を聞いても、容易に信じようとはしなかった。兼実にしてみたら、義仲の行動も過激であり、法皇の行動もまた「至愚の政」(『玉葉』)であった。
法住寺合戦に勝利した義仲は、院の近臣約40人を解官(11月28日)。一方で義仲と結んだ前関白・藤原基房が権力を握った(基房の子・師家はわずか12歳であったが、内大臣に昇進した)。
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