「木曽義仲」平家都落ち実現後に法皇襲撃のなぜ? 後白河法皇との対立が深まっていった背景

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法皇は使者・壱岐判官知康を義仲のもとに遣わし「狼藉を鎮めるように」命じる。法皇の近臣・知康は鼓の名手であり、人々は彼を「鼓判官」とあだ名していた。

知康は、義仲を訪問し、法皇の意向を伝えるも、義仲は返事もせずに、ただ「皆があなたのことを鼓判官というのは、多くの人々にあなたが打たれたからか」と尋ねるばかりだったという。

知康は呆然とし、返事もせずに、院の御所に帰り「義仲は愚者でございます。今にも朝敵となることでしょう。ただちに追討するのがよろしいかと」と法皇に言上。法皇はその言葉に動かされ、延暦寺や三井寺の悪僧たちを召集し、義仲を討つ準備を始めたというのだ(『平家物語』)。

義仲と知康対面時のエピソードは創作であろうが、知康が鼓に堪能で、今様にも優れ、法皇のお気に入りであったことは事実である。

『愚管抄』によると、知康と大江公朝が「頼朝軍が上洛すれば、義仲などおそるるに足らず」と法皇に進言し、挙兵をそそのかしたとされており、知康が義仲打倒のために動いていたのは事実であろう。

「人家に押し入り、物を奪うことがどうして悪いのだ」

法皇の義仲に対する想いがこじれたと伝わると、院方に加勢する者が増したと『平家物語』は記す。

義仲の側近・今井兼平は「一大事でございます。とはいえ、帝王に合戦を挑むことがどうしてできましょうか。甲を脱ぎ、弓の弦をはずし、降伏なさいませ」と主君に助言する。

それに対して、義仲はこう言った。

「私は、信濃を出てからこれまで、まだ敵にうしろを見せたことはない。たとえ、帝王であっても、甲を脱ぎ、降人となることなどできようか。都の守護をしている者が、馬1匹飼って乗らないでいられようか。いくらでもある田を刈らせて秣(まぐさ、馬や牛などの飼料にする草やわら)にするのを、法皇がおとがめなさることがあろうか。兵粮米がないので、若者が都に出かけ、人家に押し入り、物を奪うことがどうして悪いのだ。大臣の家や御所に押し入るのなら悪事であろうがな。

法皇がご機嫌を損じられたのは、鼓判官の讒言によるものに違いない。その鼓を打ち破ってしまえ。このたびは、義仲、最後の戦となろう。戦ぶりは、頼朝が伝え聞くこともあろうぞ。者ども、立派に戦をしようぞ」(『平家物語』)

寿永2(1183)年11月19日、義仲は法皇がいる法住寺殿を攻撃するのである。

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