「木曽義仲」平家都落ち実現後に法皇襲撃のなぜ? 後白河法皇との対立が深まっていった背景

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義仲は同年9月下旬には、平家を討伐するために、西国(播磨・備前・備中方面)に進出していたが、備中国の水島で平家軍に大敗(閏10月1日)すると、同月15日に帰京していた。これは戦に敗北したからというよりも、後白河法皇が鎌倉の源頼朝と通じ、策動していたからである。 

閏10月には、「十月宣旨」を施行するとの名目で、頼朝の命令を受けた源義経らが西方に向かい動き出していた。義経らの軍勢がいつ義仲討伐に転じるとも限らず、義仲としては西国で平家と戦している暇はなかった。よって、あわてて、京に帰還したのである。

閏10月26日、法皇は義仲に平家討伐を改めて命じるも、義仲は動こうとしない。11月17日には、法皇は「もし、謀反の心がないなら、早く西海に赴くべし」とキツい言葉で義仲に出陣を迫る。これは、法皇から義仲への最後通牒といってよいだろう。法皇は、武士らを動員して、院御所の法住寺殿を固めていたので、義仲と一戦交える気でいたに違いない。そして、義仲も法皇と武力でもって向きあうことになる。

木曽勢が見た鼓判官・知康の奇矯な姿

寿永2年(1183)11月19日、木曽義仲の軍勢数千騎が後白河院のいる法住寺殿についに攻め寄せる。『平家物語』によると、木曽勢は、甲に「松の葉」を付けて、目印としていたという。

法住寺殿の西門に押し寄せた木曽勢が見たものは、鼓判官・知康が、赤地の錦の直垂に鎧をわざと着ず、甲のみを被っているという奇矯な姿であった。知康の甲には四天王の画像が貼り付けてあったそうだ。築地の上に立つ知康は、片手に矛を持ち、もう片方に金剛鈴を所持しそれを振り鳴らし、時に舞う。それを見た公卿らは「みっともない。知康には天狗が憑いたのではないか」と苦笑した。

それでも知康はおかまいなしといった風情で「昔は、宣旨を読みかければ、枯れた草木も花が咲き、実がなり、悪鬼・悪神も従ったものだ。末世といえども、どうして帝王に向かい、弓ひいてよかろうか。お前たちの放つ矢は、かえってわが身に当たろうぞ。抜いた太刀は、わが身を斬ることになろう」と呼ばわる。

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