「木曽義仲」平家都落ち実現後に法皇襲撃のなぜ? 後白河法皇との対立が深まっていった背景
木曽勢も知康に負けてなるものかと、鬨の声(ときのこえ、士気を高める目的で多数の人が一緒に叫ぶ声)をあげ対抗した。御所の搦手に遣わされた木曽方の樋口兼光の軍勢は鬨の声をあげると、火矢を御所に射込む。風は激しく、火は瞬く間に燃え広がった。
院方の戦の行事であった知康は、おそれをなしたのか、われ先に逃げ出したという。それを見た官軍の兵士たちも、同じように先を争い逃げてしまう。あわてすぎて、長刀を逆さまについて足を貫く者もいたという。
院方に付いていた多田源氏の軍勢も逃走していたが、「落人を打ち殺せ」と命じられていた味方の兵士たちから石を投げられてしまう。「われわれは味方ぞ」と言っても、信じてもらえず、散々に石を投げつけられるさまは哀れである。
衣装をはぎ取られ、全裸で立つ人々も
院御所には、天台座主・明雲、園城寺長吏・円恵法親王もこもっていたが、火災により黒煙が迫ってきたので、馬に乗り、河原に出ようとした。そこにも、木曽方が矢を雨のように射掛けてくる。明雲も円恵法親王もついに射殺されてしまう。
河原に逃げる者はほかにもいたが、そこには、木曽勢に衣装をはぎ取られ、全裸で立つ人々がいたという。河原の寒風が身にしみる季節に全裸はキツかったであろう。法皇は輿に乗り、他所に移ろうとするが、そこにも矢があまた射かけられた(『平家物語』)。
見るにみかねた供の者(豊後少将宗長)が「法皇の御幸であるぞ。あやまちをいたすな」と怒ると、敵方の武士は皆、下馬し、かしこまったと言われる。しかし、結局、法皇は逃走中に身柄を拘束され、五条東洞院の藤原基通邸に移されることになる。法皇を拘束した木曽方の士卒は「歓喜」したという(『玉葉』)。
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