「木曽義仲」平家都落ち実現後に法皇襲撃のなぜ? 後白河法皇との対立が深まっていった背景
 
平家がいたときよりもひどい状況に
木曽義仲ら源氏の軍勢が上洛してきた当初から、京中におけるその乱暴狼藉が問題となってきた。寿永2(1183)年7月下旬に義仲が後白河法皇から平家追討を命じられた際にも併せて「京中の狼藉を停止せよ」との仰せがあった(『玉葉』)。
法皇は、このような狼藉はあまたの兵士が駐留しているから生じると考えており「軍勢を減らすように」言ったようだが、不測のことが起こりかねない状況でもあり、いたずらに兵士を減らすことは危険であった。また、軍勢を減らしたとしても、兵糧がなければ狼藉は絶えないということもあって、なかなかうまくいかず、狼藉は激しくなる一方だった。
そして、同年9月上旬には「近日の天下、武士のほか、一日として存命の計略なし」(『玉葉』)という慘状となり、人々は避難や財物の土中への隠匿に努めるのである。
『平家物語』には「平家が都にいたころは、ただ何となくおそろしいだけであり、衣服を剥ぐということはなかった。平家が源氏に変わり、かえってひどいありさまとなった」という民衆の怨嗟の声が記されている。





 
         
         
        
       
        
       
           
           
          
         
          
         
         
         
         
        












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