「愛国心やナショナリズムは危険だ」という大誤解 ウクライナ問題で露呈、「大人の道徳」なき日本

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しかし、そんなことはどうでもよいわけです。ウィリアム・テルの物語が重要なのは、それが、不当な支配には断固として抵抗するとか、祖国の自由と独立のためには命懸けで戦うとかといった、スイス人の共和主義的な国民的価値を表現しているからです。

歴史の諸事実を客観的に明らかにすることは、学問としての歴史学の大事な仕事ですが、それとは別に、歴史をいかに語るかという思想的な問題も同時にあります。歴史学と歴史認識、あるいは歴史教育は、異なる次元の問題なのに、歴史学者の多くが、もっぱら歴史学が語る歴史だけが歴史だと思っているのは大きな問題ですね。

「プロレス」としてのナショナリズム

古川:歴史をどう語るかという問題において重要なのは、「フィクションか、フィクションでないか」ではなくて、「どのようなフィクションを語るか」です。歴史は物語られる時点ですでに本質的にフィクションなのですから、それをフィクションだといって批判したって何の意味もありません。

これはまさにナショナリズムの問題です。大場先生と私は同世代ですが、ちょうど我々が学生の頃、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』が流行って、日本の知識人はこぞって「ネイションなど想像の産物にすぎない」と、そのフィクション性を批判していましたよね。

大場:鬼の首でも取ったかのようにね。

古川:そうそう(笑)。あれほどバカバカしい言説もなかったと思います。

アンダーソンがいいたかったのは、ネイションは想像力――私は「構想力」といったほうが適切だと思いますが――の産物であるがゆえに、むしろ強いリアリティをもつということです。

最近、ある政治学者と話していておもしろかったのが、ナショナリズムというのは、いわばプロレスみたいなものだ、という話です。

子どもは、リアルに殴り合っていると思ってプロレスに熱狂しますよね。ところが、少々知恵がついてくると、「あんなのはショーにすぎない」などと小賢しいことをいって、熱狂している子どもをバカにするやつが出てくる。

けれども、大人になると、プロレスがたしかに一種のショー、つまりある意味ではフィクションであることを理解したうえで、しかしそのフィクションを命懸けで真剣に演じるところにこそ、プロレスの本当の魅力があることがわかってくるわけです。大人はそのへんのことを全部わかってプロレスを楽しんでいるのに、それを「リアルな格闘じゃない」などと批判して、いい気になっているやつこそが、実はいちばん子どもなんですね。

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