「愛国心やナショナリズムは危険だ」という大誤解 ウクライナ問題で露呈、「大人の道徳」なき日本
古川:日本の学者や知識人のなかには、愛国心やナショナリズムは危険だ、悪だと思い込んでいる人が、いまだに多いようですね。そんなイデオロギーはとっくに前世紀で終わったものと思っていたのですが、どうもそうでもないようです。
最近も、私の学生が論文のなかで「自由で民主的な社会を作るには一定のナショナリズムが必要だ」という、ごく平凡な主張をしただけで、審査委員の教授からやたら感情的な批判を浴びて、話になりませんでした。「ナショナリズム」という言葉を聞くだけで、反射的に拒絶反応を起こす人が、まだ一定数いるんですね。
そういう人たちは、ロシアに抵抗して戦っているウクライナ人のことも、「危険なナショナリスト」だといって糾弾するのかと問いたいです。
ワイドショーをにぎわした「奴隷」たち
古川:それにも関連しますが、日本のワイドショーやメディアでは一部のコメンテーターが「ウクライナ政府は早々に降伏すべきだ」と主張して炎上騒ぎになっていたようですね。
彼らがいうには、「国家の戦争で市民が犠牲になるべきではない」と。たしかに、最近の悲惨な虐殺の報道をみていると、そういいたくなる気持ちもわからないではありません。けれども、考えるべきなのは、そもそも近代国家において「国家の戦争」と「市民の犠牲」を分けて考えることができるのかということです。
近代国家の基本的な論理は、国家の主体(主権者)は市民であるということです。だから当然、国家の戦争はただちに市民の戦争でもあります。「戦争は政治家や軍隊だけがやればよい。市民は関係ない」というのは「戦争は王や王の軍隊だけがやればよい。庶民は関係ない」という中世国家の論理です。
「政治の主体は市民だが、戦争の主体は市民ではない」などといった論理は成り立ちません。市民の主体性を否定するなら、それは民主主義の否定ですよ。
大場: 国家や社会の運営に主体的に参加せず、自身の身体的快楽を満たすために、経済的利潤を追求してばかりの人々と言えるでしょうか。『大人の道徳』で古川先生が厳しく批判された「奴隷」そのものでしょう。
古川:彼らの主張は、戦後日本の思想界や社会科学を支配してきたイデオロギーを端的に露呈させていると思います。それは、「国家は市民社会を外部から統治する権力機構であり、したがって国家と市民社会は対立する」という考え方です。
さらにその背景には、「戦前の日本では一部の狂信的な政治家や軍部が始めた誤った戦争に国民が巻き込まれた。国民は国家の犠牲者であり、アメリカがそれを解放したのだ」という、戦後アメリカが喧伝した歴史観があります。
市民が国家に支配される無力な犠牲者でしかないのであれば、いつまでたっても市民は国家の政治的主体として自立することはできません。戦後日本に民主主義が根づかない、いちばんの原因は、この「アメリカの物語」だと思います。