「愛国心やナショナリズムは危険だ」という大誤解 ウクライナ問題で露呈、「大人の道徳」なき日本
ナショナリズムもまさにそうで、ナショナルな物語を文字どおりの真実として信じ込むのはたしかに子どもですが、それをフィクションにすぎないなどと批判して知的ぶっているのは、もっと子どもです。フィクションをフィクションと知りつつ、あたかも真実である「かのように」真剣に引き受ける、というのが「大人」の態度ではないでしょうか。
そういう意味で、私の『大人の道徳』の続編は、『大人のナショナリズム』にしようと思っています(笑)。
歴史と思想がもつ「力」
大場:おっしゃるとおりだと思います。「フィクション」というと、嘘だと思って拒否反応を示す人がいるかもしれませんが、そうではない。たとえば祖父母や父母の話を子に伝える時、立派なエピソードや仕事の話をして、子どもが楽しんだり憧れたりします。そこで自分もそうした人になりたいと思って向上するものであって、わざわざどうしようもない性格や失態を話しません。これはある意味「フィクション」ですが、嘘ではない。「あいつもこいつもただの人間だった」では、「自分がこうなのも仕方ねえや」で進歩がない。こんなものは文明ではなく、祖先も親もなく、ただ生まれて死んでいく動物と同じです。やはり人間が文明を作り、進歩するには物語が必要なのです。
そうした意味で今必要なことは、「自由と民主主義を奉じる世界の人々の連帯の表明」といった構図ではなく、われわれ自身の歴史意識に立脚しつつ、ウクライナの問題も同時に語ることができる物語です。
フィンランド、ポーランド等々、ロシアという帝国の圧迫を受け続けてきた国々は数多く、日本も千島列島や樺太での一件を踏まえればその一員です。今回はたまたまウクライナでしたが、北方領土、北海道への侵攻も、絵空事ではない。「共同体を破壊してくるロシアという帝国から守るために、国境を接する国々は連帯して抑え込まなければならない」、といった主体的な構図が求められていると感じます。歴史や思想がリアルポリティクスのうえで意味を持つのは、このような視点を示せるからでしょう。
古川:何しろロシアではプーチン自身が歴史の論文らしきものを書いて物語を作っていますからね。人文・社会科学、なかでも歴史や思想は、良くも悪くも現実の世界を動かす力をもっているということを、日本の政治家はもっと認識するべきです。最近は中国も哲学研究や思想研究に相当力を入れているらしいですね。
かたや我が国の政治家は、大学を「稼げる大学」にするのだとか息巻いているようなありさまですから、今後ますます、歴史、哲学、思想などは「稼げない」研究として大学から締め出されていくでしょう。おっしゃるとおり、国際社会からも蔑まれることになるでしょうね。
(後編に続く)
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら