「愛国心やナショナリズムは危険だ」という大誤解 ウクライナ問題で露呈、「大人の道徳」なき日本
大場:アイヌに限らず、異なる価値観の民族を内に含みながら、日本という国を、確固とした価値観で成立させなければなりません。異なる価値観を無視すると「日本民族は他民族を抹殺する」と左翼に利用されるだけです。そのカウンターで例えば「アイヌは左翼で反日だ」などと世界観を逆張りするだけの集団が「保守」を謳っている状況も危うい。ただ、いわゆる「つくる会」運動以降の主流は、逆張り保守になっているような気がしてなりません。
「歴史学」が「歴史意識」を破壊する
古川:しかし、いまの若い世代と話していると、歴史をどう語るかという問題以前に、そもそも歴史意識そのものというか、自己の存在を歴史においてとらえるという観念そのものが、もう根本的になくなってしまっているような感じがします。
たとえば、私の大学の学生はほとんどが北海道の出身ですが、彼らは自分のルーツも全然知りませんし、当たり前のように「日本は単一民族国家です」というんです。
大場:う~ん。『わたしたちの札幌』とかで郷土史をやったはずなのに……。
古川:君たちは学校でアイヌのことを教わらなかったのかと聞くと、はじめて「ああ、そういえばそうでしたね」と。もう自分には何の関係もない話になってしまっているんですね。
大場:それは「歴史学」のあり方も影響しているかもしれませんね。膨大な史料をもとに、通説の「事実」をひっくり返していく学問上の仕事は、確かに刺激的です。ただ、思想を専門に研究している私としては、「事実はこうだった」と言われたところで、「だから何なの」となってしまう。むしろ、私が私自身を、そして世界を考える時に、過去はどういう意味を持ち、将来にどのような価値を示してくれるか、ということを期待しています。
例えば、『三国志演義』はしばしば「作り話で、事実でない」などと評されますが、あの作品の主題は、事実の提示ではなく、世界観をどう持つかということでしょう。司馬遷の『史記』でも色濃く出ていますが、何を善とし、悪とするのか。そして世界はどう動かすべきかという物語の提示が目的ですね。「物語」というとフィクション、おとぎ話のように聞こえますが、歴史という素材を加工し、ストーリーを作りながら、思想を表明しています。全知全能の神でない限り、すべての「真実」を並列して語ることは不可能でしょう。歴史意識をつむぐ物語は、そうした限界を前提に、世界をどう見るのか、どう生きるのかを示そうとするものだと思いますね。
古川:まったくおっしゃるとおりです。ナショナリズム研究者のアンソニー・スミスも典型的な例として挙げていますが、たとえばスイスの英雄、ウィリアム・テルの物語を知らないスイス人はいません。しかし、では彼は本当に息子の頭上のリンゴを射抜いたのかといえば、もちろんそんなのはフィクションに決まっていますし、そもそも歴史学的には彼の実在さえ証明されていません。