瀬戸内寂聴さんが晩年感じた「生きすぎたケジメ」 2016年に94歳で書いた随想「老いの果て」とともに

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隣にお灸の好きな母の叔母が住んでいて、私はよくこの婆さんにお灸をすえられた。この人は子供にお灸をすえるのが趣味で、町内の子供たちは、この婆さんから逃げまわっていた。母はこの婆さんに命じられ、小さな私をおさえつけながら、

「どうせすえるなら、頭のよくなるお灸をすえてやって下さい」

と頼んでいる。私はあらん限りの泣き声をはりあげて、この婆さんをのろっていた。

体は丈夫ではなかったが、私は落第もせず学校に通い、女学校から、東京女子大まで通った。大した大病もしなかったが、ひ弱ではあった。二十歳の時、思い立って新聞広告で見た大阪の断食寮に入り、二十日断食を決行した。断食は思ったより楽だったが、二十日食べなかったあと、二十日かけて、元食にもどる、その時が、まさに地獄であった。食堂でみんな一緒に食事をする。自分が水のようなおも湯なんか飲まされている時、白米のほくほくを大口あけて食べている人を見ると、殺してやりたくなるほどうらやましい。

断食のおかげで四十日、女子大を抜けだしたが、そのおかげで、すっかり肉体改良した。

生まれ変わった

つまり私は二十歳ですべての細胞が入れ替わったので、生まれ変わったわけである。二十の時、生まれ変わったので、私の肉体の細胞は、通常の年齢より、二十歳若いといっていいのではないか。つまり、今、九十四歳だけれど、細胞は七十四歳なのかもしれない。 とすれば、あと、二十年も生きたら、どうしよう。さすがに近頃は全身だるくしんどくて、閑があれば、ベッドで横になっているのが、何より楽である。これまでおよそ見る間もなかったテレビを、何時間でも見ている。おかげで、今回のオリンピックに精通してきた。

原稿はまだ書けるが、指が曲がってしまったので、字が益々汚くなって編集者を泣かせている。それでも注文があるのは有難いと思うべきなのだろう。友人は片っ端から死んでゆく。葬式にも出られなくなった。専ら寂庵の中からうごかない。東京へ日帰りなどもはや夢のまた夢である。

耳は益々遠くなってまわりが迷惑しているが、私は別に不自由を感じない。目は片目で本は読める。一日中読んでも疲れない。この目が見えなくなったら、もう何の楽しみもない。生きているのが嬉しいとか有難いとかいう気持ちは全くない。生きすぎるのは苦痛だと思う。でも自殺はまわりに迷惑をかけるから、したいとは思わない。

死ぬ瞬間までペンを持てたらいいなと思っているが、それは無理だろう。
(二〇一六年四、五、六月 第三百四十九、三百五十、三百五十一号)

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