瀬戸内寂聴さんが晩年感じた「生きすぎたケジメ」 2016年に94歳で書いた随想「老いの果て」とともに
朝、目が覚める度に、
「ああ、また今日も生きている」
と心につぶやく。そのことが少しも有難いとも嬉しいとも思わない。そんなことを思ったり、言ったりするのは、人間として傲慢だと言われても、そう思うのだから仕方がない。いつ頃からか、人は私と別れる時、異口同音に、
「どうか、いつまでもお元気で生きていて下さい」
でなければ、
「百まで生きていて下さいね」
と言う。どちらも、私自身にとっては有難くも嬉しくも感じられない。
この正月で、数え年なら九十五歳、満歳なら九十四歳の私にとって、これ以上生きつづけていくことは、正直、うんざりなのである。
70代で成しとげた『源氏物語』の現代語訳
私の経験によれば、生きていることが、心が弾むように楽しく面白いのは、七十代であった。私は七十歳から『源氏物語』の現代語訳に取りかかり、六年半かけて、それを成しとげた。しかも、その時、岩手県の極北にある天台寺の住職に任命され、毎月、京都から通い、法話を始めていた。すっかり荒廃しきった天台寺を復活させるためであった。
しかもその頃、私は敦賀 の女子短大の学長も兼任していた。よくもそんなことが出来たものだと、今からふりかえると、ぞっと背筋が寒くなるが、それがすべて私の小さな体ひとつで可能だったのである。今からふりかえると奇跡としか思えないが、そのすべてをなしとげる体力が具わっていたのである。しかも自分や他人の予想以上に、どれもみな、成功させた。
その間、小説家としての仕事も休んだことはなかった。徹夜は、二晩くらいはつづけて平気だった。
それが九十代になって以来、同じ人間とは信じられない程、体力が弱ってしまった。背骨が痛くてたまらず入院したら、ガンが胆嚢にあると発見され、それも即、取ってもらった。悪性だったと報告されても、そんなものが生じていても痛くも、痒くもなかったのだからピンとこなかった。取りだした実物を見せられたが、赤くて元気そうで、ビフテキにしたら美味しそうな色と形をしていた。
体の中から、一つ臓器がなくなっても、格別、不自由でもなく生きていた。ところが、その頃から、見る見る体力が衰えて、背骨が痛く、明らかに丸く曲ってきた。気がつくと、体の肉がげっそり落ち、二十歳の時、二十日断食をした時のように、骨と皮ばかりに近づいてきた。あれほど日本はおろか、世界じゅう飛び回っていたのに、もう車椅子でなければ、新幹線にも乗れなくなった。
これはもう、生きすぎたケジメをつけなければならぬ時がきたと覚悟を決めた。決めたものの、その実行が以前のようにさっさと出来ないのである。遺書も書けていないし、身辺整理も何一つ出来ていない。このままでは死にも出来そうにない。
(二〇一六年十、十一、十二月 第三百五十五、三百五十六、三百五十七号)
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