まあ、私も(家族を含めて)45年間もこういう仕打ちを受けてきましたから、言っても仕方ないと悟って、哲学者仲間に向かって、あるいは「哲学塾」において「未来はない」とか「過去もない」(最近、そう思われる)と言っているだけにしておりますが。
さて、では、「未来はない」とは真理なのか? 完全に中立的な真理があるのか、「真理とは何か」、「ある」とは何か、とだんだん問いが高まりますが、哲学的真理とは、私見では、「自分固有の実感」と重なり合った真理なのです。
私は小学校の1年生のときから、いままで(ですから61年間)「自分の死」のことばかり考えてきて、ときどき精神状態がおかしくなりました。不思議ですね。「自分が死ぬこと」はまだ体験していないのですから、何も知らないはずなのですが(ハイデガーの言うように)、それでも、子どもの私はたえず寝汗をかくという仕方で、うちのめされて何をする気力もなくなるという仕方で、「怖い、怖い」と泣き出す仕方で、そして、いちばん症状が重いときは、一瞬この世界から抜け出ていくような感じになることによって、何かを「理解」していたのですね。
「時間」を壊すことに費やした「時間」
自分が死ぬこと、そして、多分無になること、そして、何億年経っても生き返らないこと……。こういう残酷な図式が頭の中に固い岩のように固定してしまい、次第にこの岩を「打ち砕くこと」しか生きる意味はないと思うようになった。そして、それが「できそうだ」というわずかな望みをもって、私は哲学に迷い込んだのです。そのためには、「時間」をとことん研究すればいい、そこまではわかりました。そして、ウィーンでカントの時間論に関するドクター論文を書いたときから、徐々に展望が開けてきた。つまり徐々に時間の、すなわち世界の「壊し方」がわかってきたのです。
しかし、こう書くと矛盾のようですが、時間を壊すにはなんと時間のかかることでしょうか。そのときから30年が経って、ようやく未来だけを完全に壊せた。そして、いま過去の破壊に勤しんでいるときです。こういうときに、「そと」からあたかも未来が「ある」かのような、過去が「ある」かのような雑音が入ってくると、やりきれない(破壊作業の能率が下がる)。そこで、先の話に戻り、年末年始はなるべく哲学者以外には会わないようにして、部屋でじっとしているのです。
いいでしょうか? ですから、「時間はない」、とか「世界はない」というのは、誰にでもわかるという意味で客観的真理ではなく、そういう方向で真理を見たい人にとってだけの真理なのです。しかし、そうはいっても、単なる私の思い付きではなく、少なからぬ偉大な哲学者や宗教家が、同じことを主張している。そうした夥しい文献(の一部)を毎日少しずつ読みながら、考えながら、書きながら、生きている次第です。
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