2020東京優勝へ、蘇るロス五輪の栄光 野球の五輪競技復帰が、ついに現実的に

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だが、五輪前に日米大学野球で一足先に渡米した広澤氏は、米国の投手がさっぱり打てなかった。ロサンゼルスで合流して打撃練習を見た松永監督は、明大の島岡吉郎監督の了解を取り付けた上で「足を上げずに打て」と一本足打法を封印させた。

「島岡御大」も了承しているとあっては、広澤氏も従うしかない。これが功を奏した。チーム第2戦のニカラグア戦に8番DHで出場すると右翼ポール際へホームランを放つなど5打数3安打4打点。ここから徐々に打順を上げ、準決勝の宿敵・台湾戦では5番に昇格。右足を直撃する鋭い打球で郭泰源攻略のきっかけをつくり、2-1でサヨナラ勝ちして決勝進出を果たした。

 決勝の相手は米国。日米大学野球で1勝6敗とまるで歯が立たなかったメンバーがそのまま五輪代表になっていた。試合前、USAコールが鳴り響くドジャースタジアムで陽気に振る舞う米国チームを見て、松永監督が選手にまじないをかけた。

魔法の言葉「緊張は、君たちの敵じゃない」

「君たちがあんなふうにふざけていたら、絶対に負けるぞ。緊張していいんだ。緊張しないとできないことが、たくさんあるんだ。緊張は、君たちの敵じゃない」

3回に1点の先制を許しながら、4回に広澤氏の中前適時打で逆転。3-1で迎えた
8回2死一、三塁には左中間スタンド中段に飛び込む広澤氏のこの大会3本目のホームランで勝利を決定づけた。最終回の反撃を振り切って6-3の勝利。IOCのフアン・アントニオ・サマランチ会長から、首に金メダルをかけてもらったときの松永監督の感無量の表情は忘れられない。

あの感激を再び…。松永氏はトークイベントの会場に2000年までの歴代五輪代表監督を呼んだ。鈴木義信(1988年ソウル=銀。現全日本野球協会副会長)、山中正竹(1992年バルセロナ=銅)、川島勝司(1996年アトランタ=銀)、太田垣耕造(2000年シドニー=4位)の各氏である。

「野球界がひとつになって、何としてもオリンピックに復帰してもらいたい。きょうは景気づけのためにみんなに集まってもらった」

8月にそう話していた松永氏の願いは、実現に一歩近づいた。試合時間短縮のための7回制、広告看板を全て覆い隠さなければならない球場をどこにするかなど、クリアすべき問題はいくつもあるが、緊張して事を進めれば…。ニッポン野球の敵ではない。

永瀬 郷太郎 スポーツニッポン新聞社特別編集委員

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ながせ ごうたろう

1955年、岡山市生まれ。早稲田大学卒。1980年、スポーツニッポン新聞東京本社入社。1982年からプロ野球担当になり、巨人、西武の番記者を歴任。2001年から編集委員。2005年に「ドキュメント パ・リーグ発」、2006年は「ボールパークを行く」などの連載記事を手掛ける。共著に『たかが江川されど江川』(新潮社)がある。野球殿堂競技者表彰委員会代表幹事。
 

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