2020東京優勝へ、蘇るロス五輪の栄光 野球の五輪競技復帰が、ついに現実的に

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予選を兼ねた1983年9月に韓国ソウルで行われたアジア大会は日本、韓国、台湾が5勝2敗で並び、3チームが同時優勝となった。だが、2つのアジア枠のうち、アマチュア世界野球選手権で優勝した韓国はすでに出場権を獲得していた。結局、残る1枠を賭けて日本と台湾が五輪代表決定戦を戦った。

試合は池田親興(当時日産自動車)と郭泰源の息詰まる投手戦となり、0-0のまま9回裏を迎えた。この回先頭の趙士強に投じた池田の初球、カーブが甘く入った。台湾の主砲の打球は左中間フェンスを越える。日本は痛恨のサヨナラ負けで出場権を逃したのである。

キューバ出場辞退で、訪れたリベンジのチャンス

ところが、出場の決まっていたアマチュア世界最強のキューバが出場を辞退して風向きが変わる。東西冷戦の時代。キューバの辞退は、米国など西側諸国が1980年のモスクワ五輪をボイコットしたことへの報復だった。

のちに大リーグのコミッショナーになる大会組織委員長のピーター・ユベロスはこのピンチに直面し、逆に出場枠を6から8に拡大することを提案。日本、カナダ、オランダの3カ国の出場が新たに決まった。

「オール社会人」で臨んだアジア大会の日本代表選手の平均年齢は27.7歳。敗戦時の、スタミナ面の反省から出直しを図ることになったジャパンは、社会人と大学生の混成チームにすることになった。そこで監督として白羽の矢が立ったのが法大、住友金属で監督を歴任した松永氏だった。

「絶対私に指名があると確信していました。満を持して金メダルを獲りにいくビジョンを描いていたんです」

実は、松永氏は1977年にニカラグアで開かれたインターコンチネンタルカップで日本代表監督を務めた。世界の激しいスライディングを受けて二遊間を守る選手が次々と吹っ飛ばされ、最後は投手が内野を守る事態となり韓国、米国に次ぐ3位に甘んじた。

「とにかく悔しくて…。世界で戦うには一からやりなおさなきゃいけない。野球を学問として捉えて勉強し直しました」。7年後に巡ってきた捲土重来のチャンス。社会人13人、学生7人からなる平均年齢22.5歳の若いチームを編成した。4番には社会人の荒井幸雄(当時日本石油)を据えたが、学生の目玉は広澤氏。そのバットに大きな期待を寄せた。

次ページ期待した広澤選手は当初サッパリだったが・・
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