芥川龍之介が3万字論文書いた「木曽義仲」の魅力 松尾芭蕉も愛惜した猛将の知られざる実像

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義仲の父は、源義賢。源為義の次男である。為義の長男には、頼朝の父・義朝がいる。ところが、義仲の父・義賢は、義朝の子・義平に、勢力争いの末に殺されてしまう(1155年)。義仲はわずか2歳であった。幼くして父を亡くしたところが源義経を彷彿とさせることもあり、人は義仲に同情するのかもしれない。

義仲は、信州(長野県)は木曽の豪族・中原兼遠のもとで養育された。成長した義仲は、弓矢・太刀の名手となり、立派な武将となっていた。時代は義仲を木曽の山奥に籠もらせることをさせなかった。

治承4(1180)年、平家討伐を命じる以仁王の令旨は、義仲のもとにも届けられる。そして、義仲も平家に対し、兵を挙げるのである。義仲軍は、上野国(群馬県)まで進出するが、信濃に引き返す。これは、鎌倉の頼朝とぶつかることを避けるためと言われている。単なる猪武者ではない、義仲のしたたかさを見ることもできよう。

翌年、越後の平家方の武将・城長茂を横田河原(長野県)の合戦で破った義仲軍。さらに義仲は、以仁王の遺児・北陸宮を擁立し、勢威をとどろかせる。これを見た平家は、平維盛を大将とする10万の討伐軍を派遣。両軍は、越中国砺波山の倶利伽羅峠で激突した。義仲は、1万の軍勢を敵の背後に回し、夜襲をかけて、平家の軍勢を撃滅したのである。

立ちはだかった比叡山延暦寺

京の都に向けて進撃する義仲軍の前に最後に立ちはだかっていたのが、近江国(滋賀県)の比叡山延暦寺であった。延暦寺は多くの僧兵を擁し、その勢威は武家をも脅かすものだった。延暦寺と平家との関係は悪化していたが、新参者の義仲に、延暦寺がどのような態度を見せるかは不透明なものがあった。もし義仲に敵対してきたら、義仲軍は足止めをくらい、大きな打撃を被る可能性もあった。

延暦寺を敵に回したくない。何より、延暦寺はわれわれの味方なのか、敵なのかを判別したい。そのためには、どうすればよいのか。義仲に知恵を授けたのが、彼の右筆(書記官)・大夫坊覚明という僧侶だった。覚明は、藤原氏の学問所・勧学院に出仕していたが、比叡山で出家。諸国を流浪し、ついに義仲の右筆として仕えることになった人物である。

知識人であり、地方の武人が多い義仲陣営のなかでは、異色の得がたい存在と言えよう。その覚明が比叡山の動向を見極めるために、提案したのが、諜状(通告文書)を送ることだった。諜状の筆をとったのは、提案者である覚明だ。

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