鈴木雅之「今の自分が最高」断言する自信の根源 「普遍的なラヴソング」への変わらぬこだわり

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それぞれの時代の「カッコよさ」

──35年を通して、つねに「カッコよさ」を感じる音楽を発信している、鈴木さん。それぞれの時代によって、表現してきた、もしくは感じる「カッコよさ」に違いや変化があったのでは?

鈴木:1970年代に幼なじみと一緒にグループを結成して、活動を始めたのですが。当時は、ハードロックやニューミュージックなど、さまざまなジャンルの音楽が個性を主張し合っていた。その中で、僕らが追求した「ドゥーワップ」という1960年代にアメリカを中心に隆盛を極めたコーラス・スタイルの音楽はマイノリティーな存在で、ブームに逆行していたのです。

でも、それが功を奏して、1980年にデビューさせていただくと「古くて新しい」ものとして注目されていった。ブームに乗るのではなく、作ることができたのかなと感じました。

──やがて1980年代中盤になると、ヒップホップなども台頭し、またディスコやクラブ文化も定着するようになり、鈴木さんの発信した音楽は一大カルチャーへと進化しました。

鈴木:僕がそういう場所に足しげく通っていた頃(1970年代)は、ディスコという言葉がなくて「踊り場」と言ってました。スマホはおろか、録画するデバイスも普及していない状況だったので、当時オンエアされていた『ソウル・トレイン』(1970年代放映のアメリカ発ソウル・ダンス番組)で披露されたステップを必死で頭の中にメモリーしてダンスフロアへ繰り出していましたね。

週末には(『ソウル・トレイン』のスポンサーをしていた)JUNの洋服に身を包んで、駅のホームでステップを復習している人が多くいましたよ(笑)。また、新宿だとアメリカ軍の関係者が遊びにやってくるので、本場のステップを吸収できましたし。時代の先端を体感してきたことが、その後に結びついていると思いますね。

──とくに1980年代の鈴木さんは、煌びやかな「大人」という印象が強かったです。

鈴木:デビュー前からお世話になっていた大瀧詠一さんからは「はやりものには手を出すな。後悔するから」と何度もくぎを刺されていたんですけど、1986年にソロ活動をスタートさせてからは、生音のドラムにエレクトロニックな音を混ぜた楽曲を制作したり、ファッションも肩パットが過剰に入ったジャケットを羽織ったりと、今振り返ると「何でこんなことやったの?」と思うことをたくさんしましたね(笑)。

でも、僕の座右の銘の1つとして「失敗は成功のもと」があるんですけど、あの当時いろんなことに挑戦できたことが、今にいい影響を与えていると思うし、また現在もアンテナを張り巡らせて、さまざまなものを吸収できるようになったのかなって。

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