そこで彼女は4番目の夫であるジョー・ブイヨンと共に、ドルドーニュ地方(フランス南西部)に城を購入し、"新しい夢"を叶えるために改築。養子を迎えて母親になるだけでなく、この養子縁組を普遍的な友愛の象徴としても望んでいました。そして「ミランド城」はまもなく、あらゆる大陸から、あらゆる肌の色、あらゆる宗教の子どもを分け隔てなく迎える場所となるのです。
ベーカーが最初に見つけたのが、アキオです。1954年、彼女は人種差別に反対する大会に参加するために東京を訪れました。友人の外交官、沢田美喜の紹介で、アジア最大の戦災孤児院(大磯のエリザベス・サンダース・ホーム)を訪ねた時、引き取ったのが一番小柄な赤ん坊のアキオでした。
当時は物事がシンプルな時代で、わずかな書類事務と署名だけで、アキオをフランスに連れて帰る準備ができました。ところで、彼女の目にはテルヤというもう1人の子どもの目も映っていました。彼女はその子の名前をジャノに改め、2人の赤ん坊をミランド城に連れて帰りました。
多文化の中で育ち、14カ国語話せるように
その後、ジョセフィンはさらに、世界各地から子どもたちを養子に迎えます。コロンビアのルイス、フィンランドのヤリ、イスラエルのモイーズ、カナダのジャン=クロード、アルジェリアのブライムとマリアンヌ(初めての女の子)、コートジボワールのコフィ、ベネズエラのマラ、ノエル、モロッコから2人目の女の子ステリナ……。
虹の一族、のその名の通り、ミランド城はさまざまなバックグラウンドを持つ家族が暮らす場となりました。
「幼かった私には日本人らしい癖がどことなく無意識にあり、フランスに来てからはそれまでの常識を忘れ、西洋の文化に適応しなければなりませんでした。ママンは日本人ではなかったので、(日本とフランスの)二文化の中で育てられるということはありませんでしたが、多文化環境で育ちました」とアキオは振り返ります。彼は幼い頃に14カ国語を学んだと言います。
ベーカーの夫は、子どもは6人でもう十分だと言って、彼女を止めようとしました。城などにかかるさまざまな費用もあって厳しいという考えが念頭にあったのです。そこで、ベーカーはパリの舞台に復帰し、世界各地でお別れツアーを企画して、資金を賄おうとしました。
有名女優のブリジット・バルドーも状況を救うために国民に呼びかけましたが、それでも膨らむ修繕費や養育費を賄うには至らず、結局彼女はこの城を追い出されることになります。
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