「いじめは悪いこと」と諭す人に欠けている視点 「他人からの期待や評価」が問題の隠蔽を招く

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僕は、「別に止めなくていいじゃん」と答えます。目の前で誰かがやられているのを見たときに、そこへ飛び込んで行くか行かないかは、自分で判断することであり、「飛び込んで行ける人は素晴らしい」というのは、周囲の評価です。

そもそも間に入っていじめを止める場合、今度は自分が標的になるリスクを負うわけです。そのリスクを負わないことを「加害者と同じだ」と責められることは、あってはならないですし、先生方もそこまで止めに入れない子どもを糾弾する意図があるわけではないはずです。

でも、そういった周囲の評価が、その子どもに内面化されていると、「飛び込んで行かない臆病者のお前は、加害者の一翼を担っているんだ」と言われているように感じてしまうんですね。

飛び込んで行ける人のことは尊敬する。でも、だからと言って、できない人を軽蔑することもありません。リスクを負う行動ですからね。それに、そもそも、大人が子どもにいじめを止めるように期待することは筋違いです。いじめを止めるのは大人の仕事ですから。

「エゴ」がいじめを隠蔽する

いじめは、多くの場合は2パターンで整理できます。1つは、加害者が「自分のほうこそ被害者だ」と思っているケース。「自分は相手にこんなことをやられたからやり返しているだけだ」とか「嫌なことをしてくるから正当防衛しているだけだ」などです。「被害者側にも原因がある」と加害者が言い出すようなケースがこれです。

もう1つは、「いじめているのでなく、2人で一緒に楽しく遊んでいると思っていた」というケースです。「いじめといじり」のような論点で語られることが多いのがこのケースですね。

「気に食わないからボコボコにする」というケースもないとは言いませんが、実はかなりのレアケースです。

いじめが起きること自体には深い意味はありません。人間関係の齟齬で生まれるものですから、発生そのものを根絶しようとすると、問題を覆い隠すことになってしまいます。「いじめは悪いことだ」という価値観こそが、エゴに当たるのです。

いじめた子どもは、「自分はいじめていない」「遊んでいるだけ」などと言います。先生が「いじめはやめなさい」と指導したときに、「いじめていない。悪いことじゃないからやめなくていい」と反発するのは、本人の中に「いじめは悪いこと」という規範が出来上がっているからこそです。

逆説的ですが、学校で「いじめは悪い」という考え方が強まれば強まるほど、それが内面化し、隠蔽するインセンティブが高まっていくわけです。

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