撃墜王リヒトホーフェンは何がスゴかったのか 第1次世界大戦と赤い男爵「レッドバロン」の栄光
機体を赤く塗る
「たいした理由があったのではないが、ある晴れた日に、わが愛機を派手な赤に塗ろうと思いついた。わたしの赤い飛行機が無条件にだれの印象にも残るようになったので、これは大成功だった。じっさいに、わが愛機は敵側の眼にも留まらずにはいなかったようだ」
ドイツの撃墜王マンフレート・フォン・リヒトホーフェン(1892~1918)の自伝は、赤い機体の由来をこのように記す。最初に赤く塗られた日は、1916年12月28日あるいは1917年1月20日とされている。これ以後、彼の飛行隊はすべての機体が赤く塗装されるようになる。
ここで問題となるのは機種だが、おそらくはこの時期のオズヴァルト・ベルケ(1891~1916)戦闘機中隊の主力である単座複葉機アルバトロスD.ⅡかD.Ⅲだと思われる。というのも、マンフレートが搭乗した機体でもっとも有名な三葉戦闘機フォッカーDr.Ⅰはいまだ開発されておらず、この機種が西部戦線に配備されるのは1917年8月だからである。
「レッド・バロン」(Red Baron)という彼の通称はイギリス軍側ではすぐに定着したようだが、ドイツで「ローター・バローン」(Roter Baron)という呼び方がなされるようになったのは、1945年のことである。第一次世界大戦中は「ローター・カンプフフリーガー」(Roter Kampfflieger)、すなわち「赤い飛行機乗り」という通称のほうが一般的であった。それゆえ、1917年に書かれた自伝のタイトルとなっている。
フランス語では「赤い悪魔」という意味の「ルージュ・ディアブル」(rouge diable)、「赤い小型機」という意味の「ル・プチ・ルージュ」(le petit rouge)などと呼ばれており、英仏連合軍内でのこの通称を、マンフレートは撃墜したパイロットから直接、聞かされた。
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