撃墜王リヒトホーフェンは何がスゴかったのか 第1次世界大戦と赤い男爵「レッドバロン」の栄光

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小
2/5PAGES

マンフレートの1917年最初の撃墜は1月4日、通算16機目である。この戦闘での敵機種は新型のソッピース・パップ、配備されたばかりの単座複葉機で、アルバトロスD.Ⅱ、D.Ⅲシリーズよりも性能で優っていた。アルバトロス3機による数の優位を駆使して、マンフレートは辛くもこの新型機に勝利した。これまでの16機撃墜によって、敵乗員8名が捕虜に、16名が戦死している。

プール・ル・メリット勲章と第11戦闘機中隊

この時点でマンフレートの16機撃墜はドイツ軍の最大撃墜数となったため、同年1月16日にプール・ル・メリット勲章を叙勲された。ベルケとインメルマンが授与されたときは8機撃墜の功績だったので、それを大幅に上回っている。

第11戦闘飛行隊のメンバー。搭乗しているのがマンフレート、最前列はローター

プール・ル・メリット勲章はフリードリヒ2世が制定したプロイセン王国の最高勲章だが、フランス語なのは、制定者であるプロイセン王のフランス語偏愛に由来している。若いときからドイツ語の書物を1冊も読んだことがなく、一度も正式にドイツ語を習ったことがないと語り、著作もフランス語でおこなうドイツ人の王だった(もっとも、同時代のドイツの君主や貴族たちは皆フランス語をたしなんでいたが)。皇帝ヴィルヘルム2世はプロイセン王でもあり、第一次世界大戦中に687個の勲章を授与しているが、そのなかでパイロットは比較的少なく、132人しかいない。

ドイツ国内は、プール・ル・メリット勲章を叙勲された若き英雄の誕生をことほいだ。新聞の大見出しには「リヒトホーフェン」の名が躍り、若い女性たちはマンフレート宛てにラブレターを送りつけた。しかも同時期、同盟国オーストリア=ハンガリー帝国やトルコからも高位の勲章を授けられたために、ドイツ全土で「リヒトホーフェン」に対する熱狂はとどまるところを知らなかった。

マンフレートは一連の叙勲に続いて、1917年1月15日に第11戦闘機中隊隊長への昇格が決定し、この航空隊が駐屯しているフランス北部の都市ドゥエーに赴任した。

とはいえ、彼にとって、この転属はけっして好ましいものではなかった。第11戦闘機中隊は1916年9月下旬に創設されたが、それ以降、1機の撃墜スコアもなかったからである。しかも、マンフレートは忘れがたい思い出にあふれたベルケ戦闘機中隊を離れたくなかった。

「わが愛するベルケ戦闘機中隊を去ることはただただ気乗りしません。わたしの抵抗はすべて虚しく終わりました。〔……〕ここ〔第11戦闘機中隊〕での営みでさしあたり、わたしを満足させるものはごくわずかです」と、書簡で母クニグンデにこぼしている。

3/5PAGES
4/5PAGES
5/5PAGES
森 貴史 関西大学文学部(文化共生学専修)教授

著者をフォローすると、最新記事をメールでお知らせします。右上のボタンからフォローください。

もり たかし / Takashi Mori

1970年大阪府生まれ。早稲田大学第一文学部卒業、同大学院文学研究科在籍後、同大学第一文学部助手を経て現職。Dr. phil.(ベルリン・フンボルト大学)。専門はドイツ文化論、ヨーロッパ紀行文学。著書„Klassifizierung der Welt. Georg Forsters Reise um die Welt.“(Rombach Verlag, 2011年)、『踊る裸体生活』(勉誠出版、2017年)、『裸のヘッセ』(法政大学出版局,2019年)、『〈現場〉のアイドル文化論』(関西大学出版部、2020年)、『ドイツの自然療法』(平凡社新書、2021年)。訳書に『SS先史遺産研究所アーネンエルベ』(ミヒャエル・H・カーター著、監訳、ヒカルランド、2020年)など。

この著者の記事一覧はこちら
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事