撃墜王リヒトホーフェンは何がスゴかったのか 第1次世界大戦と赤い男爵「レッドバロン」の栄光

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翌6日の夜には、再び出現したイギリス編隊に対抗して、対空防衛を充分に準備した報復戦が飛行場からおこなわれた。少なくとも3機がその近隣に墜落し、乗員全員が捕虜となっている。「ともあれ、われわれはその攻撃の成功に非常に満足した。このため、英軍は意気消沈して、われらの飛行場を攻撃するためにもはや兵力を出すことはなくなったからだ」と、上機嫌で記している。

マンフレートに追随するように、第11戦闘機中隊パイロットたちも戦果を充実させてきた。たとえば4月13日の出撃では、クルト・ヴォルフ少尉(1895~1917)4機、弟ローター2機、カール・エーミール・シェーファー少尉(1891~1917)2機、ゼバスティアン・フェストナー準曹長(1894~1917)2機、マンフレート2機の合計12機を1日で撃墜している。

英軍の夜間爆撃は、マンフレートの闘争心に火をつけたようだ。その翌日6日は出撃できなかったが、7日から29日までの期間に、マンフレートの撃墜記録は37機目から52機目まで一気に増大したからである。4月29日に4機撃墜で、50機という大台を突破したために、皇帝ヴィルヘルム2世から祝電をもらっている。リヒトホーフェンの第11戦闘機中隊のもっとも得意な日々だっただろう。

撃墜王マンフレートの戦術

マンフレートが驚異の撃墜数をレコードしていた1917年3月中旬の戦闘に関する自伝の記述から、彼のパイロットとしての成長と空戦のタクティクスを看取できる。

「まずは敵機をはるか遠方から認めて、飛行隊がそれを敵と認識し、敵の機数を数えてから、この局面の不利と有利を慎重に検討する。それゆえ、たとえば戦闘中に風によって自機が自軍の前線から大きく外れたり、前線へと押し戻されるかどうかは、きわめて重要である」

偉大なベルケとの初対面で撃墜のテクニックについて尋ねた際のマンフレートからは想像もできないほどの成長がうかがえる。このうえなく冷静に状況を判断して、勝利の条件とタイミングを瞬時に推量しており、空戦の心がまえについても、同じく論理的である。

「攻撃精神、すなわち攻勢に出ることこそが肝心であるのは、なにごとも同じで、空戦においてもそうだ。もちろん、敵機も同様に考えている。それを即座に察知しなければならない。敵機がわれわれを認識するとすぐに反転、攻撃してくる。この瞬間、わが僚機5機に〈警戒せよ!〉と命令するのだ。〔……〕われわれも同様に編隊を組んで、敵編隊に少しずつ接近していく。わたしが注意を傾けるのは、敵機で敵編隊から離れるものがいないかどうかだ。いた場合、そいつはまたとないカモである」

次ページいよいよ発砲するといった瞬間でも
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