撃墜王リヒトホーフェンは何がスゴかったのか 第1次世界大戦と赤い男爵「レッドバロン」の栄光

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撃墜が容易と判断できるターゲットを瞬時に判断する精神的優位と余裕が感じられるのであって、いよいよ発砲するといった瞬間についても、冷徹さの維持を戒めとしている。

「わが意気のなかに敵機を呑んでいるのがわかる。いましがたの興奮はとうになくなった。完全に冷静かつ虚心に思考して、相手と自身に関する命中確率を充分に検討した。概して、戦闘とはたいていの場合、興奮を最低限に抑制するべきである。興奮にはやる者は失敗をおかし、撃墜することはないだろう。それはおそらく習慣的なものなのだ。いずれにしても、今回の戦闘で過誤をおかすことはなかった」

マンフレートは真髄を体得していった

元来、幼少時から身体能力が高く、スポーツ万能だったマンフレートは、ベルケの教えを理解して、空戦経験を重ねていくうちに、その真髄を体得していったと思われる。3月31日から5月11日までの約40日間は、ドイツ軍による絶対的な制空権が維持されていた。統計的には、英軍機の損失は約150機で、マンフレートの個人記録のみで20機が撃墜されている。ドイツ機1機に対して英軍機5機という損失比で、イギリス空軍の年鑑には「血の四月(ブラッディ・エイプリル)」と記された。

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1917年春における第11戦闘機中隊の躍進めざましい理由として、カスタンの評伝では3つの要因を挙げている。乗機のアルバトロスD.Ⅱの性能が英軍機を凌駕していたこと、つぎにマンフレート自身が勇猛なパイロットであるうえに、彼が隊員たちをうまく率いて果敢に戦ったこと、最後に戦術がきわめて効率の高かったことである。ベルケの教えどおりに、1対1の空中戦にもちこみ、機体の高機動を活用して、一撃必中のドッグファイトを重視した戦術であった。

だが、その後、ドイツをめぐる戦況は悪化していく。ドイツの無制限潜水艦作戦が1917年2月から本格化すると、アメリカはドイツに宣戦布告し、連合国側として第一次世界大戦に参戦する。

1916年から翌17年にかけての冬には、「カブラの冬」と呼ばれる飢饉状態がドイツ国内で発生していたのにくわえて、連合国による大戦当初から継続する海上封鎖はドイツ帝国の軍需資源や食糧供給を枯渇させていく。その一方で、西部戦線はアメリカによる補給と増強がなされていくのだ――。

森 貴史 関西大学文学部(文化共生学専修)教授

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もり たかし / Takashi Mori

1970年大阪府生まれ。早稲田大学第一文学部卒業、同大学院文学研究科在籍後、同大学第一文学部助手を経て現職。Dr. phil.(ベルリン・フンボルト大学)。専門はドイツ文化論、ヨーロッパ紀行文学。著書„Klassifizierung der Welt. Georg Forsters Reise um die Welt.“(Rombach Verlag, 2011年)、『踊る裸体生活』(勉誠出版、2017年)、『裸のヘッセ』(法政大学出版局,2019年)、『〈現場〉のアイドル文化論』(関西大学出版部、2020年)、『ドイツの自然療法』(平凡社新書、2021年)。訳書に『SS先史遺産研究所アーネンエルベ』(ミヒャエル・H・カーター著、監訳、ヒカルランド、2020年)など。

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