撃墜王リヒトホーフェンは何がスゴかったのか 第1次世界大戦と赤い男爵「レッドバロン」の栄光
だが、隊長となったマンフレートは、かつてベルケのように新天地の戦闘機中隊のパイロットたちを鍛えあげて、みずからが率いるエリート航空部隊へと変貌させる。この部隊はのちにリヒトホーフェン戦闘機中隊と改称され、またイギリス軍からは「リヒトホーフェンの空飛ぶサーカス」と呼ばれ、第一次世界大戦中の伝説となっていく。この部隊は6人のプール・ル・メリット勲章授与者を輩出し、この部隊のみの総撃墜数は敗戦までに535機を記録するのだ。
弟ローターの配属とマンフレートの躍進
第11戦闘機中隊隊長に異動したマンフレートの17番目の撃墜は、異動8日後の1月23日、18機目はその翌日である。乗機は、流線形の新型機体の単座戦闘機アルバトロスD.Ⅲで、プロペラ同調装置による機関銃2門をそなえ、同時期のほかのどの戦闘機よりも速度と上昇性能が優れていた。連合軍側に対して性能的優位を回復した機体である。
2月1日の19機目の撃墜後にシュヴァイトニッツの実家へ休暇で戻っているが、2週間後の14日には前線に復帰し、20機目を撃墜している。翌月の3月4日では23機目、6日に24機目、その11日後の17日には27機目を記録しており、この時期の撃墜ペースには眼を見張るものがある。
そして1917年3月10日には、当時はドゥエーの西方3キロメートルに位置するラ・ブライエルを拠点としていた第11戦闘機中隊に、弟ローター・フォン・リヒトホーフェン(1894~1922)が配属されてきた。
マンフレート本人にもさらなる変化があった。3月22日に特例により中尉に昇進したのである。平時であれば、中尉昇進は軍歴12年に相当するために、異例さがきわだつ。
マンフレートとローターが初めて一緒に出撃した3月24日には、兄は30機目の、弟は初撃墜に成功する。そのうえ、この初撃墜からわずか6週間で、ローターは20機目の撃墜という快挙を達成する。兄マンフレートに劣らず、弟も優秀なパイロットであることを戦果で証明したのだが、悲しいかな、兄の華々しい記録の陰に隠れてしまう。とはいえ、兄自身はこの弟の撃墜記録を自伝で非常に高く評価している。
自伝に「暑い一日」として、早朝から連続集中砲火が激しかったと記された4月2日は、早朝から襲来した敵編隊を迎撃し、32機目を撃墜後、朝食と入浴後に索敵飛行で再度出撃し、33機目をマークしている。
第11戦闘機中隊を看過できなくなったイギリス軍は、4月5日にその拠点飛行場に大々的な夜間爆撃を敢行した。4つの格納庫が完全に破壊され、多くの戦闘機が破壊もしくは大破、滑走路は弾孔によってほぼ使用不能となった。
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