盛者必衰を描く「平家物語」は初戦闘の迫力が凄い 源平合戦のきっかけとなった「橋合戦」の行方

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そうした現状を見て、以仁王は「三井寺だけではもうどうにもなるまい。延暦寺は心変わりし、南都の軍勢はまだやって来ない。このまま日を過ごしているばかりでは状態が悪くなっていく」と言い、三井寺を出て、奈良へ50騎で落ちることにする(5月25日)。興福寺の蜂起を期待したのだ。

以仁王は、疲労と寝不足で落馬しつつも、宇治にたどり着く。その哀れな様と、勢いづく平氏方の様子を『平家物語』は次のように伝える。

「以仁王は、宇治と三井寺との間で、六度も落馬された。これは、夜になかなかお休みになれないからだと言う。そこで、宇治橋の橋板を三間とりはずし、平等院に入り、暫く休憩された。

一方、六波羅では『それっ、宮は南都へ落ち延びたというぞ。追いかけて、討とうぞ』と気勢をあげ、大将軍の、平知盛、平重衡、平行盛、平忠度、侍大将の上総守忠清らを先陣として、総勢2万8000の軍勢が木幡山を越えて、宇治橋のあたりに押し寄せる。敵は平等院に立てこもったと見て、三度、鬨の声をあげ、威嚇すると、宮方からも同じく鬨の声があがった」(『平家物語』巻第四・橋合戦より。筆者が現代語訳)

「王が南都へ」との情報を得た平氏方も軍勢(『平家物語』では約2万の軍勢と記されるが、実際は300騎ほど)を繰り出し、宇治川を挟んでの戦いとなるのであった。

この戦いは「橋合戦」と呼ばれるが『平家物語』で初めての本格的な合戦シーンである。以仁王側の軍勢は、敵を食い止めるために、宇治橋の橋板を落とし、待ち受ける。平氏方の先陣が「敵は橋板を取り外している。気を付けよ」と言うが、後ろまで声が届かず、200騎の兵が川に落ち、流されてしまったと『平家物語』は記す。しかし、これも実際は、川は深くはなく、平氏の軍勢は簡単に渡河できたようである(『玉葉』)。

だが、それでは面白くない!ということで、ここから『平家物語』が描いたダイナミックな合戦シーンを紹介する。

「矢切の但馬」が大活躍

戦闘の開始を告げる矢が双方から射かけられ、戦が始まる。矢は将兵の鎧や楯を貫き通した。源頼政(以仁王とともに挙兵した源氏の長老)は、長絹の鎧直垂に品革威の鎧を着用していたが、兜は着けていなかった。

息子の仲綱も赤地の錦の直垂に黒糸威の鎧を着けてはいたが、同じく兜は着けず。これは、死を覚悟したためといわれている。以仁王側の五智院の但馬という者は、大長刀の鞘をはずし、ただ一騎で、橋上に躍り出た。

平氏方はこれを見て「あれを射よ、者ども」と弓の名手に射撃を命じるが、但馬は少しも驚かず恐れず、あるときは矢をヒラリとかわし、あるときは矢を長刀で叩き落とす。但馬の見事な戦振りに敵も味方も目をみはり、この後、彼は「矢切の但馬」と呼ばれるようになったという。

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