盛者必衰を描く「平家物語」は初戦闘の迫力が凄い 源平合戦のきっかけとなった「橋合戦」の行方
三井寺の堂衆の1人である明秀も黒革威の鎧を着て、五枚甲の緒をしめて、橋の上で大音声をあげる。
「三井寺にだれ知らぬ者のない、筒井の浄妙明秀という一人当千の兵ぞ。われと思う者は寄ってこい。相手になろうぞ」と言うが早いか、明秀は矢を次々に射て、その場にいた敵兵を射殺すか負傷させ、敵を近づけさせない。さらに明秀は裸足となり、橋の行桁(ゆきげた)を、都大路を進むかのごとくするすると渡り、長刀で敵を5人薙ぎ倒すのである。
だが、6人目と渡りあったときに、長刀の柄が真中で折れてしまう。明秀は長刀を捨て、今度は太刀で襲いかかるが、敵は多勢。斬りまくるうちに、9人目でまたもや、太刀が折れ、川へ落ちてしまう。
残るは腰刀のみ。それでも、明秀は奮戦し、平等院の門前まで引き返す。芝の上で鎧と兜を脱ぐと、鎧の矢の跡は63もあったという。ただ深傷は負っていなかったので、灸をすえた後、僧衣を着て、念仏を唱えながら、奈良のほうへ去っていった。
以仁王方からの思わぬ攻撃を受けて、平氏方の武将(上総守忠清)から「敵は手強い。五月雨で水かさも増している。川を渡るまでに人馬を失くしてしまう。ここは河内路に迂回しては」との意見も出るが、それを聞いた下野国の足利忠綱は「坂東武者の習いとして、敵を目前にして、水の深いか浅いかを選り好みすることはできない。われに続け」と郎党を引き連れて、渡河を始める。
忠綱は「強い馬を上手にせよ。馬の足のとどく間は手綱を緩めよ。馬が跳ねあがったならば、手綱を引き締め、泳がせるのだ。者ども、手を組み、肩を並べて渡れ。敵が矢を射ても応えてはならぬ。流れに従い、斜めに渡れ」と的確な指示を出したので、300の軍勢は無事に渡河できたという。
勢いづいた平氏の軍勢
忠綱らの一軍が渡河できたことに勢いづき、ほかの平氏の軍勢も次々と川に入り向こう岸まで渡ろうとする。川を渡った平氏軍は、平等院の門内へ攻め入り、戦いを繰り広げる。源頼政は、以仁王を奈良へ先に落ち延びさせた。70を越える老齢の頼政は、すでに左の膝を射られ、負傷していた。敵は次から次へと襲いかかってくる。
(もはやこれまでと思った)頼政は、家臣である渡辺唱(わたなべのとなう)を傍に呼び「わしの首を討て」と命じるも、唱は「そのようなことはできません。ご自害された後、御首を頂きましょう」と提案。頼政は「もっともだ」と言うと、辞世の句を詠み、太刀の先に腹を突立て、うつぶしざまに貫かれて死ぬ。
頼政の首は唱が宇治川の深淵に埋めたという。そして唱と並ぶ頼政の忠臣である渡辺競(わたなべのきおう)も、戦いに戦い、遂には深傷をおい、腹をかき切る。
以仁王は奈良へ落ちていく途上、光明山の鳥居の前で、矢に当たられて落馬。敵に首を討たれた。ここに以仁王の乱は鎮圧されたのである。
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