打倒平氏の命令受けた源頼朝「最初は静観」のなぜ 挙兵のきっかけとされる以仁王の令旨をめぐる謎

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鎌倉幕府によって編纂された歴史書『吾妻鏡』を見てみると、4月、5月には、頼朝の動静は記されていない。頼朝が挙兵に向けて動き出すのは、6月からだ。

6月19日に、三善康信(母が頼朝の乳母の妹。下級貴族で、京の動きを頼朝に知らせていた)の使者が頼朝に対し、平家打倒の令旨を受け取った者は討滅される可能性を伝えたところから、頼朝の挙兵に向けた動きが見え始める。

6月27日には、下総国の千葉胤頼と相模国の三浦義澄が頼朝のもとを訪問。挙兵について密談している(『吾妻鏡』)。7月10日には、安達盛長が、相模国には頼朝の命令に従う者が多くいそうなこと、その一方で招集に従わず、悪口を吐く武士がいたことを頼朝に伝達している。盛長らが各地に赴き、同志を募っていたのだろう。

こうしてついに、8月17日深夜、頼朝挙兵の日を迎えるのである。

平家方の圧力が強まることに危機感

以仁王の乱後、伊豆国の知行国主には、平時忠が任命されていた。しかも、源仲綱(頼政の子)の子息・有綱を追討するために、冒頭のエピソードにも登場した平家方の大庭景親が派遣されるとの情報があり(実際、景親は8月上旬に東国に到着)、これも、頼朝の緊張を高めたに相違ない。

そうしたことを考えたとき、頼朝は令旨を契機に挙兵したというよりは(もちろん、いつかは挙兵しなければならぬとの想いはあったにせよ)、今後、平家方の圧力が強まってくると危機感を感じ、挙兵を決断したといってよいだろう。頼朝挙兵は、以仁王の乱後の平家方の行動が招いたものということができよう。

頼朝は挙兵し、伊豆の目代・山木兼隆の邸を夜襲。ついにその首を獲る。初戦は頼朝の勝ちとなるも、8月23日に行われた石橋山(現・小田原市)の戦いにおいて、大庭景親・伊東祐親らと戦となり、頼朝は命の危険にさらされるほどの負け戦をする。

安房国に逃れた頼朝は、上総広常、千葉常胤という有力武将の支援を受け、回復。父祖に縁のある鎌倉に入り、ここを拠点として、新たな戦いに備えることになるのであった。

濱田 浩一郎 歴史学者、作家、評論家

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はまだ こういちろう / Koichiro Hamada

1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『あの名将たちの狂気の謎』(KADOKAWA)、『北条義時』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)など著書多数

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