打倒平氏の命令受けた源頼朝「最初は静観」のなぜ 挙兵のきっかけとされる以仁王の令旨をめぐる謎

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頼朝は13歳のときに、父・源義朝とともに平治の乱(1159年)に参戦して敗北。逃亡したが捕らえられた。本来なら処刑されるところを、清盛の継母・池禅尼の嘆願で命拾いする。伊豆への配流に減刑されたのだ。

流人・頼朝は、伊豆国伊東の豪族・伊東祐親、次いで北条時政の監視を受けて、日々を過ごすことになる。頼朝は時政の娘・政子と結ばれることになるが、それは頼朝そして伊豆の中小豪族だった北条氏の運命をも大きく変える。

頼朝は悲惨で不自由な暮らしをしていたわけではない

配流・流人といったら、悲惨で不自由な暮らしをしていたと想像されるかもしれないが、頼朝の場合、そうではなかった。頼朝の乳母・比企尼が支援してくれていたし、父・義朝の家人の子息(佐々木定綱・盛綱)や安達盛長(武蔵国の武士)が側近く仕えていたからだ。伊豆の知行国主が源頼政という源氏だったことも、頼朝の流人生活に幸いしたかもしれない。

平氏の流れと称する北条氏の娘と結婚できたということ自体が、頼朝の配所生活の緩さを象徴しているようにも思う。では、なぜ緩かったのか。義朝の子といえども、遠方に流された流人。強大な平家に対し、いったい何ができるのかという「油断」があったのではないか。

しかし、以仁王(もちひとおう、後白河法皇の皇子)と源頼政の挙兵によって事態は急展開する。以仁王の平家打倒を命じる令旨(皇族の命令文書)は、源行家により諸国の源氏に配布されるが、それは伊豆の頼朝のもとにもやって来る。

頼朝は北条館で水干(武家の礼装)を着て、氏神の石清水八幡宮を遥拝してから、謹んで令旨を拝見したという(『吾妻鏡』)。 令旨には清盛とその後継者・宗盛が後白河院を幽閉し、良い臣下を流罪にしていること、国家を滅ぼし、財を盗るなど横暴の限りを尽くしているとして、これを追討せよと記されていた。そして頼朝は同じ年の8月17日に挙兵する。

ここに1つの謎がある。頼朝は、以仁王の令旨に応じて挙兵したとされてきた。令旨が頼朝のもとに届いたのは、治承4(1180)年の4月27日。頼朝の挙兵まで、約3カ月の間がある。いったいなぜなのか。

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