この詩に、感銘した松下は、唱えやすいよう自分なりに要約した。
そして色紙に書いて、それを額に入れ、架けていた。
この言葉通りに、松下は最期まで、この気持ちを持ち続けていた。
翌年から、日本をよりよくするための活動を考え始める。国民運動を組織しようか、日本繁栄研究所をつくろうか、あるいは、政治家養成塾をつくろうか、あれもやろう、これもやろうと思いめぐらし、検討をしていたし、時には、81歳で渡米したり、84歳で訪中したり、85歳のときに、松下政経塾を創設、念願の政治家養成に取り組んでいる。86歳のときには、10月に訪韓、11月にも、また訪米している。
その間、『国土創成論』で国土問題を、『無税国家論』で財政問題を、『廃県置州論』で国のかたち問題を、さらには『日本式民主主義論』で日本的民主主義問題を、そしてなにより、自身の20数年に及び考察した人間観などを次々と世に問うていった。
「まだまだ勉強せんといかん」
昭和59年(1984年)11月はじめ、松下はこういう話をしている。
「もうわしも90歳や。このところ、ちょっと体の調子が悪いけどな。けど、まあ、よう生きたなあと自分でも不思議でなあ。そうや、みんな家族は、とうに亡くなってしもうとるしな。わし一人やな。こんな長生きするとは思っておらんかった。両親も、多分一人っ子同士やったんやな。おじさん、おばさんもおらんかった。だから、甥も姪も、いとこもおらんな、わしには。
この27日で90歳やから、27日になったら、もう一回、一から出直しや。そうしようと、このところ、ずっと思っておるんや。それで今、考えとるのは、来年の4月から、中学校に入ろうかと。ほんまや。もう一ぺん勉強しようと思ってな。うん、中学入るのは難しいやろうな。けど、大丈夫や。難しいけど、どこか向こうが入れてやると。一つぐらいは、あるやろう。きみも探してくれや。うん、もちろん、毎日、中学校に通って勉強する。そして、高校に行って大学に行って。そう思っておるんや。やらんならんことは、いっぱいあるけど、勉強しながら、そういうこともやりつつ、そうや、いわば、苦学生やな。優等生になるつもりで、一生懸命やるからな。きみは、わしの家庭教師や。宿題なんかも、いろいろ教えてや。うん?きみ、学生時代に、家庭教師のアルバイトをしてたんか。そりゃ、好都合や。上手に教えてや」
翌年の正月5日には、
「今年は、大学をつくろうかと。それに取り組もうかと。そうや、普通の大学や。文学部とか、法学部とかあるやろう。いや、わしは理事長にも学長にもなれへんのや。ほかの人にやって貰おうと。わしはな、その大学生の第1号になるんや。それで勉強しようと。まだまだ勉強せんといかんと思うんや。それでな、どうしたら、大学をつくれるか、調べてくれや。まず時間割な、あれをつくってみてくれんか。考えてみると、やらんならんことがいっぱいあるな。お神酒(みき)飲も。ええ門出や」
いずれも、実現しなかったが、90歳になっても、なおこのように思い、考えていた松下幸之助は、「青春」の言葉通りに生き抜いたと、私は思っている。
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