鈴井貴之「9割は失敗」が『水どう』を生んだ必然 北海道だったから「一か八か」が可能になった
── 鈴井さんは大学在学中から劇団を立ち上げて、過激な舞台を上演していたそうですが、その「当たり前じゃないものを投げかけたい」という芝居に対する思いと、『水曜どうでしょう』の完全フリーなドキュメンタリーは、鈴井さんが目指す方向性と一致していたんでしょうか?
鈴井:いや、まったく違います。だから、葛藤はありました。当時、僕と大泉くんは「コンビの芸人さんですか?」と言われたし。僕は演劇や演出といった、作品を作るほうで頭がいっぱいだったので、自分では「こういうことをやりたいわけではない」という思いはすごくありました。
ただ、当初はテレビを知っているのは構成作家をやっていた僕しかいなかったので、『水曜どうでしょう』も、最初のほうは僕がリードしてしゃべっているんですよ。途中から大泉くんのぼやきがおもしろくなって、「こっちがいいな」と思って。ちょうど映画の話もあって、「映画監督として作品を作るのでやめさせてください」と伝えて、それで僕は番組を1回休んでるんですよね。
でも、映画を撮ってもう一度番組に参加したときに、それまで抱いていた疑念がなくなってスッと復活できた。今まで自分で線引きしていたことに何の意味があったんだろうって思って。それから、俺はもうしゃべらなくてもいいやって(笑)。復活したのが2001年ぐらいですね。
演劇との出会い
── 鈴井さんが演劇の表現に引かれたのは、何かきっかけがあったんですか?
鈴井:20歳のときに札幌にあった劇団で1回、お芝居したことがあるんです。そのころ、40年くらい前の札幌って、東京のいろんな劇団……唐十郎さんや寺山修司さん、東京ボードビルショーなどの劇団にいた人がUターンしてきて劇団を立ち上げて、共同で倉庫を借りて劇場のようなものを作って上演していたんですよ。
それで僕も、「欠員が1人出たから探してた」っていう友人の紹介で、1つの劇団に入ったんです。でも稽古をしてたら、人間性を否定されるようなことを言われるんですよ。「おまえはなんでこの言い回しでセリフを言えないんだ。親にどう育てられたんだ」って。そこまで言われる筋合いはないよ、みたいな。「うわ、腹立つ。やってられないよ」と思ったけど、途中でやめるのは、役は小さいけど迷惑がかかるし、「終わったらやめよう」って思ってました。
そうしたら、その打ち上げの席で「次はいつやるんですか?」って自分から言ってたんです。それは本当に小さい、百数十人しかお客さんがいない劇場ですけど、そこで僕が何かひとこと言うとみんな真剣に聞いてるわけですよ。300ぐらいの瞳が僕に集中してる。そのザワザワした感覚にショックを受けたんでしょうね。
ただ、そこは働きながらやっている人が多くて、僕は暇な大学生だったので、「じゃあ、ここの集団の若手を集めて、僕が新しい劇団をやっていいですか」って感じですぐに自分で作ってやり始めちゃったんです。そのお客さんと共有している独特の空気感にひかれて、初舞台のときから、ずっと今日までやっているのかな、と思いますね。