「1回の失言で政権交代招いた」ある政治家の失態 「とうとう東京渡辺銀行が破綻しました」
だが、話し合いがつかず、大蔵省は力添えをしなかった。しかも東京渡辺銀行の状況は、大臣の片岡にそのまま報告された。だからこそ、ポロリと口からこぼれてしまったわけだ。
しかし、その後、東京渡辺銀行は、必死の努力によって持ち直し、営業を再開していた。なのに片岡が、こんな発言をしたことで、本当に休業に追い込まれることになった。
発言の意図について片岡本人は、自伝の中で、「予算委員会でこの発言をしたのは午後4時すぎで、すでに銀行の業務は終了していたので問題はなかった」と主張し、さらに、銀行を「監督を致して居る者が、其の監督を受けて居る者よりして、届け出でました時に、之を公に致すと云ふことに於いて何等不都合はない」(以上、前掲書)と断言している。
いずれにせよ、この発言はその夜には噂として広がり、翌朝、新聞に掲載されてしまった。結果、人びとを動揺させ、やがて「銀行が潰れる前に預金を引き出そう」と、大勢が銀行の窓口に殺到する事態になった。こうした取り付け騒ぎにより、東京渡辺銀行を含め、6行が休業を余儀なくされてしまった。これが、いわゆる金融恐慌である。
なお、この騒動をつくった片岡の言動は、衆議院でも大問題となり、3月19日、小川平吉ら13名の議員たちが「現に営業中の銀行に対し、已に破綻せりとの宣言を為し、依て財界の動揺を惹起したるは、極めて重大なる失態なり」と、問責決議案を提出した。同案は反対多数で否決されたものの、騒動はこれで終わらなかった。
翌4月、破綻した巨大商社の鈴木商店に対し、膨大な金を貸していた台湾銀行の経営状態が危うくなり、とうとう休業に追い込まれてしまう。すると、再び先の取り付け騒ぎが始まり、前回以上に拡大したため、今度はなんと37行が休業状態になってしまったのだ。
そこで若槻内閣は、緊急勅令による台銀銀行の救済を昭和天皇に求めた。ところが、昭和天皇はこれを拒絶する。といっても、実際に反対したのは枢密院であった。枢密院は、天皇の諮問(諮詢)機関で、天皇が緊急勅令の可否を問うたところ、枢密院が拒んだので、天皇は許可しなかったのである。
枢密院は、保守的な閥族の牙城であった。だから、若槻内閣が中国に対して協調外交を展開していることが面白くなく、倒閣を企図して緊急勅令を認めなかったのだ。この結果、若槻内閣は、事態を収拾できず総辞職することになってしまった。そう、片岡の失言が、金融恐慌の誘発に加え、内閣の崩壊まで招いたのである
失言が政権交代まで招いてしまった
かわって組閣したのが、立憲政友会総裁の田中義一であった。つまり政権は、憲政会から野党の立憲政友会へと交代することになったわけだ。
田中は、財政や金融に詳しい高橋是清元首相を蔵相に任じ、金融恐慌の沈静化にあたらせた。高橋は、支払い猶予令と日銀非常貸出を実施し、短期間で恐慌を鎮めることに成功した。
なお、立憲政友会は、緊縮財政を展開した憲政会と正反対に積極財政を進め、さらに外交においても協調外交から対中国強硬外交へ転じた。
このように、たった一言の失言が、経済界の混乱と政権交代をもたらし、日本の経済・外交政策を変えてしまうという、思わぬ結果になったのである。
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